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  • 第4話 隠された秘密

    翌朝。

    小春は、昨日のことが頭から離れないまま会社へ向かった。

    あの写真に写っていた男性。

    そして、湊のあの表情。

    「……何なの?」

    小春は小さくつぶやいた。

    会社に着くと、無意識に湊の姿を探してしまう自分に気づいた。

    会いたい。

    そう思ったことが、少し悔しかった。

    「おはよう、小春さん」

    突然、後ろから声がした。

    「わっ……!」

    振り返ると、湊が立っていた。

    「驚きすぎ」

    「だって……急に声かけるから」

    「昨日から、俺のこと避けてる?」

    「……避けてません」

    「じゃあ、なんで目を合わせないの?」

    小春は言葉に詰まった。

    そんなこと、分かるわけがない。

    湊の顔を見ると、胸が苦しくなるから。

    「……湊さんが、変なこと言うからです」

    「俺、何か言った?」

    「私が嫌いになるって……」

    湊の表情が少し曇った。

    「……覚えてるんだ」

    「忘れられませんよ」

    しばらく沈黙が続いた。

    そして湊は、周りに誰もいないことを確認するように辺りを見た。

    「……小春」

    呼び捨てにされた瞬間、小春の心臓が跳ねた。

    「……はい」

    「俺のことを、好きにならないで」

    胸が、ぎゅっと締めつけられた。

    「……どうして?」

    「理由は言えない」

    「またそれですか?」

    「うん」

    湊は困ったように笑った。

    「でも、一つだけ言える」

    「何ですか?」

    「君が俺を好きになったら……たぶん、俺も困る」

    「……え?」

    湊はそれ以上何も言わず、仕事へ戻っていった。

    小春は、その場に立ち尽くした。

    ――俺も困る。

    その言葉の意味を考えるだけで、顔が熱くなる。

    *

    仕事が終わったあと。

    小春が駅へ向かっていると、後ろから湊が追いついてきた。

    「小春」

    「湊さん?」

    「送る」

    「大丈夫です」

    「知ってる」

    「じゃあ……」

    湊は少しだけ笑った。

    「俺が送りたい」

    その一言に、小春は何も言えなくなった。

    二人で並んで歩く。

    会社を出て二人きりになると、湊はもう「小春さん」とは呼ばなかった。

    それが、小春には妙に嬉しかった。

    しばらく歩いたあと、湊が口を開いた。

    「昨日の写真」

    小春の足が止まった。

    「……はい」

    「まだ持ってる?」

    「はい」

    「見せて」

    小春はバッグから写真を取り出した。

    湊は写真を見た瞬間、目を伏せた。

    「やっぱり……」

    「知ってるんですか?」

    「……知ってる」

    「この人、誰なんですか?」

    長い沈黙のあと。

    湊は、静かに答えた。

    「君のお父さんだよ」

    小春は息をのんだ。

    「……でも、父は私が小さい頃に亡くなったって」

    「そう聞かされてるんだね」

    「どういう意味ですか?」

    湊は答えなかった。

    ただ、写真の裏側を指差した。

    「そこ、見て」

    小春が写真を裏返す。

    そこには、古いペンで小さく文字が書かれていた。

    ――小春へ。いつか、君に本当のことを話す。

    「……これ、誰が書いたの?」

    小春が顔を上げた瞬間。

    湊のスマートフォンが鳴った。

    画面を見た湊の顔から、血の気が引いていく。

    「……どうしたんですか?」

    湊は答えない。

    小春のスマートフォンも、同時に震えた。

    あの番号だった。

    恐る恐る開く。

    そこには――

    『湊さんに聞いてはいけません。』

    そして、その下にもう一通。

    『だって、あなたのお父さんを死なせたのは――』

    小春の指が止まった。

    続きの一文を、読むことができなかった。

    湊が、小春のスマートフォンを見つめていた。

    そして、低い声で言った。

    「……小春。それ以上、見ないで」

    「……どうして?」

    「俺が……全部話すから」

    そう言った湊の目は、今まで見たことがないほど苦しそうだった。

    ――第5話「言えなかった約束」に続く。

  • 第3話 隠された写真

    翌朝。

    小春が会社に着くと、まだ始業時間には少し早かった。

    エントランスを抜けたところで、見覚えのある姿が目に入る。

    「……湊さん?」

    柱の横に立っていたのは、湊だった。

    「おはよう」

    「お、おはようございます。どうしたんですか? こんな早く」

    「別に。たまたま」

    そう言いながら、湊は小春の手元を見た。

    「……傘は?」

    「あ……」

    昨日借りた傘は、家に置いたままだった。

    「忘れました」

    「やっぱり」

    湊が小さく笑った。

    その瞬間、窓の外で雨が降り始めた。

    「えっ……」

    小春が窓に近づくと、湊がため息をつく。

    「だから言ったのに」

    「天気予報では降らないって……」

    そのときだった。

    「小春さん」

    後ろから声をかけられた。

    振り返ると、同じ部署の男性社員が立っていた。

    「これ、よかったら使って」

    差し出されたのは、黒い折りたたみ傘。

    「昨日も傘なかったよね。たまたま予備があったから」

    「あ、ありがとうございます」

    小春が受け取ろうとした瞬間――

    「……それ、受け取らなくていい」

    湊の声がした。

    「え?」

    湊は小春の手から傘を取り上げると、自分の傘を開いた。

    「こっち」

    「でも……」

    「駅まで送る」

    そう言って、湊は小春の手を取った。

    ほんの一瞬だった。

    けれど、その手の温かさは、離れたあともしばらく残っていた。

    *

    昼休み。

    小春が一人で休憩室にいると、朝の男性社員がやってきた。

    「ちょっと、いい?」

    「はい?」

    彼はポケットから一枚の写真を取り出した。

    「これ……小春さんだよね?」

    写真には、幼い頃の小春が写っていた。

    そして、その隣には――知らない若い男性。

    「……誰?」

    「それは、俺にも詳しくは分からない」

    「じゃあ、なんで私の写真を……」

    男性は少し迷ってから言った。

    「これ、湊さんには見せないほうがいい」

    「どうして?」

    答えを聞く前に、休憩室のドアが開いた。

    「小春」

    湊だった。

    視線が、写真に向けられる。

    「……何の写真?」

    「え?」

    湊の表情が、初めて明らかに変わった。

    「それ……どこで?」

    「この人が……」

    小春が振り返ると、男性社員はもういなかった。

    「小春」

    湊が静かに言う。

    「その人には、あまり近づかないほうがいい」

    「どうして?」

    「……言ったら、君が俺を嫌いになるから」

    その言葉が、胸に引っかかった。

    「湊さん……何を知ってるんですか?」

    「今は、まだ言えない」

    「どうして?」

    湊は答えなかった。

    ただ、小春を見つめていた。

    その目が、いつもよりずっと苦しそうに見えた。

    *

    その夜。

    小春のスマートフォンが震えた。

    また、あの番号からだった。

    『写真の男性を知りたいですか?』

    小春は迷いながら画面を開いた。

    続いて、もう一通。

    『この男は、あなたのお父さんです。』

    「……お父さん?」

    小春の指が震えた。

    父親は、小春が幼い頃に亡くなったと聞かされていた。

    それなのに――。

    さらにメッセージが届く。

    『湊さんが隠していることを、私は全部知っています。』

    小春は画面を見つめたまま動けなかった。

    そのとき。

    窓の外に、人影が見えた。

    「……え?」

    慌てて窓に近づく。

    そこに立っていたのは――湊だった。

    手には、朝と同じ黒い傘。

    小春は息をのんだ。

    その傘を見た瞬間、昼間の写真と、あの男性の言葉が頭をよぎった。

    ――湊さんには見せないほうがいい。

    どうして?

    どうして湊は、あの写真を見た瞬間に、あんな顔をしたの?

    そして――

    どうして私のことを、こんなにも気にかけてくれるの?

    小春は窓越しに湊を見つめた。

    胸の奥が、また苦しくなる。

    いつの間にか――
湊に嫌われることより、
湊を好きになってしまった自分のほうが、怖かった。

    ――第4話「隠された秘密」に続く。

  • 第2話 二人目の傘

    翌朝。

    小春は、昨日のメッセージを何度も読み返していた。

    『その人に近づかないでください』

    『湊さんを好きになってはいけません』

    『あなたが彼を好きになるまで、あと3回です。』

    いたずらなのかもしれない。

    そう思おうとした。

    けれど、気味が悪かった。

    何より――

    「どうして、私が湊さんを好きになることを知ってるの?」

    小春はスマートフォンをバッグにしまった。

    まだ好きじゃない。

    絶対に。

    そう自分に言い聞かせながら会社へ向かった。


    「おはようございます」

    「おはよう」

    いつものように挨拶をして、自分の席へ向かう。

    すると、机の上に小さな紙袋が置かれていた。

    「……何これ?」

    中を見ると、昨日借りたものと同じ折り畳み傘が入っていた。

    そして、その上にメモ。

    『昨日の傘、これで返したことにして。』

    小春は思わず笑ってしまった。

    「湊さん……?」

    振り返る。

    少し離れたところで、湊がパソコンを見ていた。

    「これ、湊さんが?」

    「うん」

    「どうして?」

    「小春さん、昨日の傘、返すって言ってたでしょ」

    「はい」

    「でも、俺が使う傘なくなるから」

    「……え?」

    「だから買ってきた」

    小春は目を丸くした。

    「わざわざ……?」

    「駅のコンビニで」

    「そういうこと……」

    なんだ。

    ちょっと期待した自分が恥ずかしい。

    小春が俯くと、湊が小さく笑った。

    「何?」

    「いえ……」

    「顔、赤いけど」

    「赤くないです!」

    思わず大きな声が出た。

    近くにいた同僚が振り返る。

    「小春ちゃん、朝から湊さんと何してるの?」

    「何もしてません!」

    湊は笑いながら自分の席へ戻っていった。

    小春はその背中を見ながら、胸を押さえた。

    ――やっぱり、少し変だ。

    昨日まで何とも思っていなかったのに。


    その日の午後。

    小春が資料をコピーしていると、突然プリンターが止まった。

    「あれ……?」

    何度やっても動かない。

    困っていると、後ろから手が伸びてきた。

    「紙、詰まってる」

    「わっ……」

    振り返ると、湊がすぐ後ろに立っていた。

    近い。

    思わず一歩下がる。

    湊は何も気にせずプリンターを直している。

    「はい」

    「ありがとうございます」

    「小春さんってさ」

    「はい?」

    「すぐ顔に出るよね」

    「え?」

    「困ってる時も、嬉しい時も」

    湊が小春を見る。

    「分かりやすい」

    その目が優しくて――

    小春は、何も言えなくなった。

    「……そうですか?」

    「うん」

    湊は少し笑った。

    「俺は、そういうところ好きだけど」

    「……え?」

    湊は何事もなかったように、その場を離れていった。

    小春はその場に立ち尽くした。

    今――

    「好き」って言った?

    いや。

    きっと、そういう意味じゃない。

    そう思おうとした。

    でも、胸の鼓動はなかなか収まらなかった。


    仕事が終わり、会社を出る。

    今日は雨が降っていない。

    小春は駅へ向かって歩き始めた。

    すると、後ろから声がした。

    「小春さん」

    振り返る。

    湊だった。

    「駅まで一緒に行く?」

    「……はい」

    並んで歩く。

    昨日より少しだけ近い距離。

    何を話せばいいのか分からない。

    そんな小春に、湊が突然言った。

    「昨日のメッセージ」

    小春の足が止まった。

    「……え?」

    湊は小春を見る。

    「届いたでしょ?」

    心臓が止まりそうになった。

    「なんで……」

    「俺のこと、好きになるなってやつ」

    小春は何も言えない。

    湊は少し困ったように笑った。

    「ごめん」

    「湊さんが送ったんですか?」

    「違う」

    「じゃあ、誰が?」

    湊は答えなかった。

    代わりに、小春の手からバッグを取った。

    「持つよ」

    「え、でも……」

    「いいから」

    そして、歩き出す。

    小春はその横顔を見ながら尋ねた。

    「湊さん」

    「ん?」

    「私……湊さんを好きになったら、何か困ることありますか?」

    湊の足が止まった。

    しばらく黙ったあと――

    「ある」

    小春の胸が締めつけられる。

    「……どんな?」

    湊は小春を見つめた。

    「俺が困る」

    「え……?」

    湊はそれ以上、何も言わなかった。

    ただ、小春のバッグを持ったまま駅まで歩いた。

    その夜。

    また、知らない番号からメッセージが届いた。

    今度は一言だけ。

    『1回目。』

    小春は画面を見つめた。

    そして、その直後。

    湊から初めてメッセージが届いた。

    『明日、会社の前で待ってる。』

    小春の胸が、また大きく鳴った。

    でも――

    そのメッセージの直後。

    知らない番号から、もう一通。

    『二人目の傘を受け取ったら、もう戻れません。』

    小春は、昨日もらった傘を見つめた。

    「……二人目?」

    その言葉の意味を、まだ小春は知らなかった。

    ――第3話「二人目の傘」に続く。

  • 第1話 【あなたを好きになるまで、あと3回。】

    転職して一週間。

    小春は、まだ新しい職場に慣れずにいた。

    コピー機の場所も、給湯室の使い方も、誰に何を聞けばいいのかも分からない。

    その日も、資料を抱えたまま廊下で立ち止まっていた。

    「……これ、どこに持っていけばいいんだろ」

    小さく呟いた、その時。

    「それ、会議室B」

    後ろから声がした。

    振り返ると、一人の男性が立っていた。

    黒い髪。
    白いシャツ。
    無駄なことを話さなそうな、少し冷たい目。

    「……ありがとうございます」

    「初めてだよね」

    「はい」

    「じゃあ、ついてきて」

    そう言って、彼は歩き出した。

    小春も慌てて後を追う。

    会議室に資料を置くと、彼は何も言わずに戻っていった。

    「あの……!」

    小春が呼び止める。

    男性が振り返った。

    「お名前……」

    「ああ」

    彼は少しだけ笑った。

    「湊」

    それだけ言って、また歩いていった。

    その日の昼休み。

    小春が一人でお弁当を食べていると、同僚の女性が隣に座った。

    「小春ちゃん、もう湊さんと話した?」

    「湊さん?」

    「さっき廊下で一緒にいた人」

    「あ、うん」

    すると彼女は、少し驚いた顔をした。

    「珍しい」

    「何が?」

    「湊さん、自分から新人に声かけたりしないから」

    小春は箸を止めた。

    「そうなの?」

    「うん。無愛想で有名」

    そう言われると、少し気になった。

    確かに、優しいというより淡々としていた。

    でも――

    資料を運ぶ時、重そうなものを小春から自然に取ってくれた。

    あれは、優しさじゃないのだろうか。

    そんなことを考えていると、午後になった。

    突然、外から雨の音が聞こえてきた。

    帰る頃には、かなり強い雨になっていた。

    小春は会社の入口で立ち尽くす。

    傘を持ってきていない。

    「最悪……」

    その時。

    頭上に傘が差し出された。

    「使えば?」

    振り返る。

    湊だった。

    「え?」

    「俺、車だから」

    「でも……」

    「風邪ひくよ」

    そう言って、湊は傘を小春の手に押しつけた。

    「ありがとうございます」

    「じゃあ」

    「湊さん!」

    また呼び止めてしまった。

    湊が振り返る。

    「明日、返します」

    「いつでもいいよ」

    そう言って、今度こそ歩いていった。

    小春は、その背中を見つめていた。

    胸が、少しだけ変な感じがした。

    まだ名前を知ったばかりなのに。

    なぜか、もう少し彼のことを知りたいと思った。

    その夜。

    小春は借りた傘を玄関に立てかけた。

    そしてスマートフォンを見る。

    会社の連絡先を確認していると――

    一件のメッセージが届いた。

    知らない番号だった。

    『その人に近づかないでください』

    小春は眉をひそめた。

    誰?

    もう一通。

    『湊さんを好きになってはいけません』

    心臓が、ドクンと鳴った。

    そして最後に届いたメッセージ。

    そこには――

    『あなたが彼を好きになるまで、あと3回です。』

    小春は、画面を見つめたまま動けなかった。

    ――第2話「二人目の傘」に続く。

  • 【毎週届く花】を最後まで読んでくださったあなたへ

    『毎週届く花』を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

    毎週ひとつずつ届く花。

    その花には、一体どんな意味があるのか。

    美咲が少しずつ過去を思い出していくたびに、隠されていた秘密がひとつずつ明らかになっていきました。

    そして最後に届いた、一輪の白い花。

    あの花に込められていたものは、恐怖ではなく――
    ずっと誰かを想い続ける気持ちでした。

    最後まで読んでくださった方には、ぜひもう一度、第1話から読み返してみてほしいです。

    最初に読んだときとは、少し違って見える場面があるかもしれません。

    そして、このブログ『最後の一行』では、また新しい物語が始まります。

    次の物語も、最後の一行まで読んでいただけたら嬉しいです。

  • 第15話 最後にとどいた花

    「お母さん……?」

    美咲の声は、震えていた。

    目の前にいる女性は、何も言わずに涙を流している。

    15年間。

    死んだと思っていた。

    もう二度と会えないと思っていた。

    それなのに――

    ずっと近くにいた。

    花を届けてくれていたのも、この人だった。

    「どうして……今まで……」

    美咲が尋ねると、母はゆっくりと口を開いた。

    「怖かったの」

    「何が?」

    「あなたが、あの夜のことを思い出してしまうことが」

    母は白い花をテーブルに置いた。

    「15年前、あなたは何も悪くなかった。でも、あなたは見てしまったの」

    「何を?」

    母は、しばらく黙っていた。

    そして、ようやく話し始めた。

    「あの男は、あなたのお父さんを脅していたの」

    「……私のお父さんを?」

    「あなたが生まれた秘密を知っていたから」

    美咲は息をのんだ。

    「あなたを産んだ女性は、あの男と関係があった。でも、あなたが生まれた時、その女性はあなたを育てることができなかった」

    「だから……私を?」

    「私が引き取ったの」

    母の目から、また涙が落ちた。

    「私はあなたを産んでいない。でも、あなたを抱いたあの日から、本当の娘だと思っていた」

    美咲は何も言えなかった。

    これまで「嘘」だと思っていたものの中に、母の愛情があった。

    母は続けた。

    「15年前、あの男はあなたに全部話そうとした」

    「……だから、あの夜」

    「そう」

    あの雨の夜。

    男は美咲に真実を話そうとしていた。

    そこへ夫が現れた。

    そして、父も。

    けれど――

    誰も美咲を傷つけようとはしていなかった。

    むしろ全員が、違う方法で美咲を守ろうとしていた。

    「じゃあ……夫は?」

    「あなたを守るために、ずっと嘘をついていた」

    「沙織は?」

    母は静かに微笑んだ。

    「沙織も、あなたを守るために記憶を消した」

    美咲は目を閉じた。

    「……みんな、勝手だよ」

    「うん」

    「私に何も言わずに……全部決めて」

    「うん」

    「私が何も知らないまま生きることが、本当に私のためだったの?」

    母は答えなかった。

    その沈黙が、答えだった。

    「……ごめんなさい」

    母が頭を下げた。

    美咲は涙を拭った。

    そして、母の手を握った。

    「もういいよ」

    母が顔を上げる。

    「でも……もう隠さないで」

    「ええ」

    その時だった。

    玄関の外から、足音が聞こえた。

    二人が振り返る。

    ドアが開く。

    そこに立っていたのは――

    あの男だった。

    「……久しぶりだな、美咲」

    美咲は驚かなかった。

    もう、逃げなかった。

    「あなたは、死んだことになっていたんだよね」

    「ああ」

    「どうして?」

    男は少し笑った。

    「君のお母さんが、そうしてくれた」

    そして、母を見た。

    「15年前、俺が消えなければ、美咲は狙われ続けていた」

    美咲は聞いた。

    「じゃあ……花は?」

    男は答えなかった。

    代わりに母が言った。

    「あなたが大人になって、自分で真実を知りたいと思った時に、花を届けるようお願いしていたの」

    「だから毎週……?」

    「ええ」

    母は白い花を見つめた。

    「一週間に一度。あなたが忘れたままでも、いつか思い出す日が来るように」

    美咲は花を手に取った。

    これまで不気味だった花。

    怖かった花。

    けれど今は違った。

    そこには、15年間の母の想いが詰まっていた。

    「じゃあ……今日届いた花が最後なの?」

    母は微笑んだ。

    「ええ」

    美咲は花を胸元に抱えた。

    そして気づいた。

    花には、小さなカードが結びつけられていた。

    今までのカードとは違う。

    そこには一言だけ。

    「もう、あなたは忘れなくていい。」

    美咲の目から涙がこぼれた。

    母がそっと抱きしめる。

    15年前から止まっていた時間が、ようやく動き始めた気がした。

    あの夜のことも。

    自分がどこから来たのかも。

    母がなぜ死んだことになったのかも。

    全部知った。

    それでも――

    美咲の人生は、ここから続いていく。

    窓の外を見る。

    夕暮れの空に、雨上がりの光が差し込んでいた。

    テーブルの上には、最後の一輪。

    白い花が、静かに揺れている。

    美咲はその花を見つめて、初めて笑った。

    そして、心の中で母に伝えた。

    ――ありがとう。

    15年間、私を忘れないでいてくれて。

    その時、美咲は気づいた。

    花は、真実を知らせるために届いていたんじゃない。

    ずっと――

    「あなたは一人じゃない」と伝えるために、届いていたのだ。

    そして、美咲は最後に、その花をそっと窓辺に置いた。

    もう、誰かが届けてくれるのを待つ必要はない。

    自分の手で、未来を選べるから。

    窓から入った風が、花びらを一枚だけ揺らした。

    美咲は微笑んだ。

    そして――

    今度は私が、誰かに花を届けようと思った。

    ――『毎週とどく花』 完

  • 第14話 最後の花

    住所を見つめたまま、美咲はしばらく動けなかった。

    15年前。

    あの雨の夜。

    男が倒れていた場所。

    そして――母が生きているかもしれない場所。

    「……行くしかない」

    美咲はコートを羽織り、家を出た。

    車を走らせること約30分。

    見覚えのない山道を進んでいく。

    やがて、ナビが目的地を示した。

    そこには、古びた一軒の家があった。

    門の前には、何年も手入れされていないような庭。

    けれど、その庭の片隅だけには――

    白い花が咲いていた。

    美咲はゆっくりと近づいた。

    その花を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。

    毎週届いていた花と、同じ種類だった。

    「……ここだったんだ」

    その時。

    家の中から、物音がした。

    美咲は玄関に立つ。

    鍵はかかっていなかった。

    「……誰か、いますか?」

    返事はない。

    恐る恐るドアを開ける。

    薄暗い部屋の中。

    壁には、たくさんの写真が貼られていた。

    美咲は一枚ずつ見ていく。

    幼い頃の自分。

    学校の入学式。

    母と写った写真。

    沙織と笑っている写真。

    そして――

    15年前の写真。

    その写真には、これまで見たことのない人物が写っていた。

    若い頃の母。

    沙織。

    あの男。

    そして、知らない女性。

    その女性が抱いている赤ん坊。

    美咲は写真を手に取った。

    裏側には日付があった。

    1988年10月24日。

    自分の誕生日。

    そして、その下に――

    「今日、この子を預かった。」

    と書かれていた。

    「預かった……?」

    美咲は息をのんだ。

    その時、背後から声がした。

    「やっぱり来たのね」

    美咲が振り返る。

    そこに立っていたのは――

    沙織だった。

    「沙織……?」

    沙織は泣いていた。

    「ごめんね、美咲」

    「ここ……あなたの家なの?」

    沙織は首を横に振った。

    「違う」

    「じゃあ、誰の家?」

    沙織は少し迷ったあと、静かに答えた。

    「あなたのお母さんの家」

    美咲の心臓が跳ねた。

    「……母が、ここにいるの?」

    沙織は答えなかった。

    代わりに、部屋の奥を指差した。

    「自分で見て」

    美咲はゆっくり歩いていく。

    その先に、一枚の大きな鏡があった。

    鏡の前に、白い花が一輪置かれている。

    その花の横に、手紙があった。

    美咲は震える手で開いた。

    ――美咲へ。

    ――ここまで来てくれて、ありがとう。

    ――あなたに毎週花を届けていたのは、私です。

    美咲の目から涙が落ちた。

    母だった。

    花を送っていたのは、母だった。

    ――あなたが忘れてしまったことを、私はずっと覚えています。

    ――でも、直接会うことはできませんでした。

    ――なぜなら、あなたを守るために、私自身が「死んだこと」にならなければならなかったから。

    美咲は唇を噛んだ。

    「どうして……」

    手紙には続きがあった。

    ――15年前、あなたが見たものは、すべて真実です。

    ――あの男は死んでいません。

    ――あなたのお父さんも、生きています。

    ――そして、あなたを育てた私も。

    美咲は顔を上げた。

    「じゃあ……あの夜、何があったの?」

    沙織が静かに答えた。

    「あなたのお父さんは、あの男を殺そうとしたんじゃない」

    「……え?」

    「逃がそうとしたの」

    美咲は言葉を失った。

    「じゃあ、どうして私は……」

    「あなたが見た時には、全部終わった後だったの」

    沙織は涙を拭った。

    「あなたのお父さんは、あの男を連れて逃げた。でも、その男は途中で姿を消した」

    「そして……?」

    「その後、あなたのお母さんが全部を隠した」

    美咲は写真を握りしめた。

    「私の出生も?」

    沙織はうなずいた。

    「あなたを産んだ女性は、あなたを守るために姿を消した」

    「誰なの?」

    沙織は答えなかった。

    ただ、写真の中の女性を指差した。

    美咲は写真を見る。

    そして――

    息をのんだ。

    そこに写っていた女性の顔。

    美咲は、その顔を知っていた。

    いや。

    正確には――

    何度も見ていた。

    毎週、花を届けに来た人。

    花屋で母のDVDを渡してくれた女性。

    「……そんな……」

    沙織が言った。

    「あなたのお母さんは、ずっとあなたの近くにいたの」

    美咲の目から涙がこぼれた。

    あの花屋の女性。

    あの優しい声。

    あの時、何も知らないふりをしていた理由。

    すべてがつながった。

    そして最後に、沙織が一枚の紙を差し出した。

    「これが、本当の最後」

    そこには、母の文字でこう書かれていた。

    「最後の花が届いたら、私を探してください。」

    美咲は顔を上げた。

    「最後の花……?」

    その瞬間。

    家の外から車の音が聞こえた。

    沙織が窓の外を見る。

    そして、顔色を変えた。

    「……来た」

    「誰が?」

    沙織は答えない。

    ただ、美咲の手を強く握った。

    「美咲。何があっても、今度は逃げないで」

    玄関のドアが開いた。

    ゆっくりと足音が近づいてくる。

    そして――

    部屋の入口に、一人の女性が立った。

    美咲は、その顔を見た。

    「……お母さん?」

    女性の目から、涙がこぼれた。

    「美咲……」

    母は、震える声で言った。

    「やっと……会えたね」

    その手には――

    一輪の白い花が握られていた。

    ――15話へ続く。

  • 第13話 母が隠した理由

    美咲は、写真の裏に書かれた文字を何度も読み返していた。

    ――「花が届いた理由を知れば、すべてが終わる。」

    頭の中で、今までの出来事が次々と浮かんでは消えていく。

    毎週届く花。

    母が残したDVD。

    消された記憶。

    15年前のあの夜。

    そして――沙織。

    「私が、あなたのお母さんなの」

    その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

    「そんな……」

    美咲は写真を握りしめた。

    沙織が母親?

    そんなはずはない。

    沙織は、自分と同じくらいの年齢だ。

    それなのに、自分を産んだという。

    ありえない。

    そう思った。

    けれど――

    あの手紙には、確かにそう書かれていた。

    美咲は急いで母のDVDを再生した。

    映像の中の母は、カメラを見つめていた。

    『美咲。もし、この映像を見ているなら……あなたは、もう真実を知り始めているのでしょう』

    母は一度、深く息を吐いた。

    『あなたに話せなかったことがあります』

    映像の中の母の目には、涙が浮かんでいた。

    『あなたを産んだのは、私ではありません』

    美咲は画面から目を離せなかった。

    『でも、あなたを育てたのは私です。私はあなたを、本当の娘だと思っていました』

    そこで映像が一瞬乱れた。

    そして、母の声が続く。

    『沙織は、あなたを産んだ女性の娘です』

    美咲は息をのんだ。

    「……沙織の母親?」

    つまり――

    自分を産んだのは沙織ではない。

    では、なぜ手紙には「沙織」と書かれていたのか。

    その答えを探すように、美咲は映像を見つめた。

    『沙織は、あなたの本当の母親を知っています』

    そこで母は少し黙った。

    『そして……あなたのお父さんも、その女性を知っています』

    美咲の背中に冷たいものが走った。

    映像の中の母は、最後にこう言った。

    『15年前、あの男が美咲に話そうとしていたことは、あなたの出生についてです』

    「……出生?」

    あの夜。

    男が倒れていた雨の中。

    最後に言いかけていた言葉。

    ――お前の……父親が……

    そこまでだった。

    母は続けた。

    『あの男は、美咲の本当の父親ではありません』

    美咲は立ち上がった。

    「じゃあ……誰なの?」

    その瞬間、DVDの映像が止まった。

    画面が真っ暗になる。

    そして数秒後――

    別の映像が始まった。

    15年前。

    若い美咲と沙織が並んでいる。

    その少し離れた場所に、あの男が立っていた。

    そして、その男の隣には――

    若い頃の母がいた。

    美咲は目を疑った。

    「……どうして?」

    母は、あの男と話していた。

    その表情は険しい。

    すると、あの男が母に何かを渡した。

    小さな封筒だった。

    母はそれを受け取ると、首を横に振った。

    そして――

    映像の中で、母が口にした。

    「この子には、絶対に知られてはいけない」

    美咲の心臓が大きく跳ねた。

    その直後。

    映像が切り替わった。

    病院の廊下。

    そこには、若い沙織がいた。

    そして沙織の前に――

    一人の女性が立っていた。

    顔は映っていない。

    けれど、その女性が抱いていた赤ん坊の姿を見た瞬間、美咲は凍りついた。

    赤ん坊の手首には、小さな花の刺繍が入った布が巻かれていた。

    同じ花。

    毎週届いていた花と、同じ形だった。

    「……この花……」

    母が隠したかったのは、自分の出生だけではなかった。

    花には、最初から意味があった。

    そして映像の最後。

    沙織が赤ん坊を抱いた女性に向かって、何かを言っていた。

    音声はほとんど聞き取れない。

    美咲は音量を最大にした。

    ザーッというノイズの中から、かすかに声が聞こえる。

    『この子は……私たちが守ります』

    そして、もう一人の女性の声。

    『お願い……この子を、あの人から隠して』

    美咲は画面を見つめたまま動けなかった。

    「あの人って……誰?」

    その時。

    玄関の外から、何かが落ちる音がした。

    美咲はゆっくりと立ち上がった。

    ドアの前に近づく。

    そして、そっと覗き穴を覗いた。

    誰もいない。

    ただ、玄関前に一輪の花が置かれていた。

    今まで毎週届いていたものとは違う。

    白い花だった。

    その横には、小さなカード。

    美咲は震える手で拾い上げた。

    そこには、たった一言。

    「お母さんに会わせてあげる。」

    美咲の手が震えた。

    母は死んだはずだった。

    けれど――

    もし本当に生きているのなら。

    今まで届いていた花は、母からのものだったのかもしれない。

    美咲はカードを裏返した。

    そこに書かれていた住所を見た瞬間――

    息が止まった。

    それは、

    15年前に、あの男が倒れていた場所だった。

    第14話へ続く。

  • 第12話 本当の父親

    玄関の向こうから聞こえた声に、美咲は息を止めた。

    「……お父さん?」

    返事はなかった。

    もう一度、ドアを叩く音がした。

    コン、コン。

    美咲は震える手でドアノブに触れた。

    開けてはいけない。

    そう思った。

    なのに、指は止まらなかった。

    ゆっくりとドアを開ける。

    そこに立っていたのは――

    見覚えのない男だった。

    白髪の混じった髪。
    少し痩せた顔。
    そして、雨に濡れた古いコート。

    男は美咲を見ると、悲しそうに笑った。

    「大きくなったな」

    「……誰?」

    男は答えなかった。

    代わりに、一枚の写真を差し出した。

    それは、あの写真だった。

    15年前の写真。

    美咲、沙織、あの男、そして夫。

    ただし――

    今まで見ていた写真とは違った。

    写真の端に、もう一人の男が写っていた。

    美咲は目を見開いた。

    「……この人……」

    その顔には、確かに見覚えがあった。

    子どもの頃。

    家にあったアルバムの中で、何度も見た顔。

    けれど、父親ではない。

    父親だと思っていた男とは、別人だった。

    「あなたは……誰なの?」

    男はしばらく黙っていた。

    そして、低い声で言った。

    「私は、お前の父親だ」

    美咲の手から写真が落ちた。

    「……嘘」

    「今まで、お前が父親だと思っていた男は、お前を育てた人間だ」

    「じゃあ……本当の父親は……」

    「私だ」

    頭の中が真っ白になった。

    母。

    父。

    沙織。

    夫。

    死んだはずの男。

    全部が一本の糸でつながっている。

    そんな気がした。

    「じゃあ、15年前……あなたは何をしていたの?」

    男の表情が変わった。

    「私は、あの男を逃がした」

    「……え?」

    「そして、お前の母親には、二度とお前に会わないと約束した」

    「どうして?」

    男は美咲を見つめた。

    「お前を守るためだ」

    その言葉を聞いた瞬間、美咲の胸がざわついた。

    母も、沙織も、夫も。

    みんな同じことを言っていた。

    ――守るためだった。

    でも。

    守るためなら、なぜ嘘をついたのか。

    なぜ記憶を消したのか。

    なぜ母は死んだことにされたのか。

    「私の母は……あなたを知っていたの?」

    「ああ」

    「そして、あの男も?」

    男は小さくうなずいた。

    「全員、知っていた」

    「じゃあ、あの夜……何があったの?」

    しばらく沈黙が続いた。

    やがて男は言った。

    「お前が知るべき時が来た」

    そして、懐から一枚の封筒を取り出した。

    封筒には、美咲の名前。

    そして日付が書かれていた。

    2011年11月3日。

    DVDの日付と同じだった。

    「これは、お前の母親が私に預けたものだ」

    美咲が封筒を受け取る。

    中には、一枚の紙だけが入っていた。

    震える文字で、こう書かれていた。

    ――美咲へ。

    ――もし、この手紙をあなたが読んでいるなら、私はもう隠し続けることができなくなったということです。

    美咲は震える指で、その先を追った。

    そこには――

    「あなたを産んだのは、沙織です。」

    と書かれていた。

    「……え?」

    美咲の呼吸が止まる。

    その瞬間。

    背後からスマートフォンの着信音が鳴った。

    画面には、登録していない番号。

    恐る恐る出る。

    「もしもし……?」

    『美咲……』

    聞こえてきたのは、沙織の声だった。

    そして沙織は、泣きながら言った。

    『ごめんね。もう全部、話す』

    「沙織……?」

    『今までずっと、あなたに言えなかった』

    「どういうことなの?」

    電話の向こうで、沙織が息を詰まらせる。

    『私は……あなたにずっと嘘をついてた』

    「何を……?」

    しばらく沈黙が続いた。

    そして――

    『私が、あなたのお母さんなの』

    美咲は言葉を失った。

    その直後、電話の向こうで大きな物音がした。

    「沙織?」

    返事がない。

    「沙織!?」

    何度呼んでも、もう声は聞こえなかった。

    ただ、切れた電話から微かなノイズだけが流れていた。

    美咲はスマートフォンを握りしめたまま、動けなかった。

    そして、ふと足元を見る。

    さっき落とした写真。

    その裏側に、今まで気づかなかった文字が書かれていた。

    ――「花が届いた理由を知れば、すべてが終わる。」

    美咲は、その文字を見つめた。

    毎週届いた花。

    母の死。

    消された記憶。

    沙織。

    そして――自分の出生。

    すべては、あの花から始まった。

    そして今、美咲は初めて思った。

    もしかすると――

    花は、誰かに真実を知らせるために届いていたのではない。

    真実から美咲を遠ざけるために、届いていたのではないか。

    第13話へ続く。

  • 第11話 15年前の夜

    「……私の夫?」

    看護師の言葉が、頭の中で何度も繰り返された。

    10年前。

    母が亡くなる直前。

    病院に来ていた男性。

    それが、私の夫。

    「本当に……夫だったんですか?」

    「はい」

    看護師は頷いた。

    「お名前も確認しました。間違いありません」

    私は何も言えなかった。

    夫は、母が亡くなったことを私と一緒に悲しんでいた。

    少なくとも、私はそう思っていた。

    なのに。

    私の知らないところで、母に会っていた。

    私は病院を出て、夫に電話をかけた。

    今度はすぐに出た。

    「美咲?」

    「10年前、母が亡くなる前に病院に行った?」

    電話の向こうが静かになった。

    「……誰に聞いた?」

    その一言で分かった。

    夫は知っている。

    「どうして行ったの?」

    「お前の母親に呼ばれた」

    「何を話したの?」

    「……言えない」

    「また?」

    私は思わず声を荒らげた。

    「また私に隠すの?」

    「美咲、聞いてくれ」

    「もう聞きたくない!」

    電話を切った。

    その夜、私は一人で家にいた。

    夫は帰ってこなかった。

    私は第8話で見たDVDをもう一度再生した。

    15年前の映像。

    私。

    沙織。

    あの男。

    そして夫。

    4人でいる。

    私は画面を止めた。

    「どうして……」

    そのときだった。

    頭の奥に、何かが引っかかった。

    雨の音。

    車のドアが閉まる音。

    誰かの叫び声。

    私は目を閉じた。

    すると――

    映像が浮かんだ。

    15年前の夜。

    私は車の中にいた。

    隣には、あの男。

    後部座席には沙織。

    運転していたのは――

    夫。

    「どこへ行くの?」

    私は聞いていた。

    夫は答えなかった。

    男が言った。

    「美咲、今からでも遅くない」

    「何が?」

    「全部、お前に話す」

    私は首を振った。

    「聞きたくない」

    「でも、お前のお父さんは――」

    「やめて!」

    私は叫んだ。

    その瞬間。

    車が急停車した。

    夫が車を降りる。

    男も降りる。

    二人が激しく言い争っている。

    私は車の中で震えていた。

    沙織が私の手を握る。

    「美咲、大丈夫」

    「怖い……」

    「大丈夫だから」

    突然――

    大きな音がした。

    私は車から飛び出した。

    そして見た。

    雨の中に倒れている男。

    そのそばに――

    夫が立っていた。

    私は叫んだ。

    「何したの!?」

    夫は何も言わなかった。

    私は男のところへ駆け寄った。

    「ねえ!」

    返事がない。

    私は泣きながら夫を見た。

    「救急車を呼んで!」

    夫は動かなかった。

    「早く!」

    それでも動かない。

    そのとき、男がかすかに目を開けた。

    そして私に向かって言った。

    「……逃げろ」

    「え?」

    「お前の……父親が……」

    そこで男の声が途切れた。

    私は震えた。

    「お父さんが……何?」

    男は答えなかった。

    そして、そのとき――

    別の車のライトが近づいてきた。

    沙織が叫んだ。

    「美咲!逃げて!」

    私は走った。

    何も分からないまま。

    ただ、怖かった。

    そして――

    その後の記憶がない。

    私は目を開けた。

    現在の自分の部屋だった。

    頬が濡れている。

    私は泣いていた。

    「……思い出した」

    全部ではない。

    でも、確かに思い出した。

    あの男は、あの夜、死んでいなかった。

    少なくとも私が見たときは。

    そして夫は――

    男を殺したわけではない。

    何か別のことをしていた。

    私は急いで沙織に電話した。

    「思い出した」

    電話の向こうで、沙織が息を呑んだ。

    「どこまで?」

    「車の中にいたこと」

    「……そう」

    「あなたもいた」

    「うん」

    「夫もいた」

    「うん」

    私は一つずつ確認した。

    「そして、あの男は生きてた」

    沙織は答えなかった。

    「ねえ、沙織」

    「何?」

    「あのあと、何があったの?」

    長い沈黙。

    そして沙織が言った。

    「あなたが逃げたあと……」

    声が震えていた。

    「私は、あの人のところに戻った」

    「どうして?」

    「まだ生きていたから」

    私は息を止めた。

    「じゃあ……あの人は?」

    「私が病院に連れて行った」

    「……え?」

    「でも、病院には行けなかった」

    「どうして?」

    沙織は泣きながら答えた。

    「途中で、あの人が消えたの」

    「消えた?」

    「車を止めたほんの数分の間に」

    私は混乱した。

    「じゃあ、誰があの人を連れて行ったの?」

    沙織は小さな声で言った。

    「あなたのお父さん」

    私は息を呑んだ。

    「父が?」

    「そう」

    「でも父は……」

    その瞬間。

    沙織が言った。

    「美咲」

    「何?」

    「あなたのお父さんは、15年前に亡くなってない」

    私は凍りついた。

    「……どういうこと?」

    「あなたのお父さんは――」

    沙織の声が震えた。

    「今も生きてる」

    電話が切れた。

    私はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。

    すると、玄関のチャイムが鳴った。

    一度。

    二度。

    私は恐る恐る玄関へ向かった。

    ドアの前には、誰かが立っていた。

    「美咲」

    聞き覚えのない、低い男の声。

    「長い間、待たせたな」

    私は息を止めた。

    そして男は、こう言った。

    「お前には、まだ何も話していないことがある」

    第12話へ続く。