住所を見つめたまま、美咲はしばらく動けなかった。
15年前。
あの雨の夜。
男が倒れていた場所。
そして――母が生きているかもしれない場所。
「……行くしかない」
美咲はコートを羽織り、家を出た。
車を走らせること約30分。
見覚えのない山道を進んでいく。
やがて、ナビが目的地を示した。
そこには、古びた一軒の家があった。
門の前には、何年も手入れされていないような庭。
けれど、その庭の片隅だけには――
白い花が咲いていた。
美咲はゆっくりと近づいた。
その花を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
毎週届いていた花と、同じ種類だった。
「……ここだったんだ」
その時。
家の中から、物音がした。
美咲は玄関に立つ。
鍵はかかっていなかった。
「……誰か、いますか?」
返事はない。
恐る恐るドアを開ける。
薄暗い部屋の中。
壁には、たくさんの写真が貼られていた。
美咲は一枚ずつ見ていく。
幼い頃の自分。
学校の入学式。
母と写った写真。
沙織と笑っている写真。
そして――
15年前の写真。
その写真には、これまで見たことのない人物が写っていた。
若い頃の母。
沙織。
あの男。
そして、知らない女性。
その女性が抱いている赤ん坊。
美咲は写真を手に取った。
裏側には日付があった。
1988年10月24日。
自分の誕生日。
そして、その下に――
「今日、この子を預かった。」
と書かれていた。
「預かった……?」
美咲は息をのんだ。
その時、背後から声がした。
「やっぱり来たのね」
美咲が振り返る。
そこに立っていたのは――
沙織だった。
「沙織……?」
沙織は泣いていた。
「ごめんね、美咲」
「ここ……あなたの家なの?」
沙織は首を横に振った。
「違う」
「じゃあ、誰の家?」
沙織は少し迷ったあと、静かに答えた。
「あなたのお母さんの家」
美咲の心臓が跳ねた。
「……母が、ここにいるの?」
沙織は答えなかった。
代わりに、部屋の奥を指差した。
「自分で見て」
美咲はゆっくり歩いていく。
その先に、一枚の大きな鏡があった。
鏡の前に、白い花が一輪置かれている。
その花の横に、手紙があった。
美咲は震える手で開いた。
――美咲へ。
――ここまで来てくれて、ありがとう。
――あなたに毎週花を届けていたのは、私です。
美咲の目から涙が落ちた。
母だった。
花を送っていたのは、母だった。
――あなたが忘れてしまったことを、私はずっと覚えています。
――でも、直接会うことはできませんでした。
――なぜなら、あなたを守るために、私自身が「死んだこと」にならなければならなかったから。
美咲は唇を噛んだ。
「どうして……」
手紙には続きがあった。
――15年前、あなたが見たものは、すべて真実です。
――あの男は死んでいません。
――あなたのお父さんも、生きています。
――そして、あなたを育てた私も。
美咲は顔を上げた。
「じゃあ……あの夜、何があったの?」
沙織が静かに答えた。
「あなたのお父さんは、あの男を殺そうとしたんじゃない」
「……え?」
「逃がそうとしたの」
美咲は言葉を失った。
「じゃあ、どうして私は……」
「あなたが見た時には、全部終わった後だったの」
沙織は涙を拭った。
「あなたのお父さんは、あの男を連れて逃げた。でも、その男は途中で姿を消した」
「そして……?」
「その後、あなたのお母さんが全部を隠した」
美咲は写真を握りしめた。
「私の出生も?」
沙織はうなずいた。
「あなたを産んだ女性は、あなたを守るために姿を消した」
「誰なの?」
沙織は答えなかった。
ただ、写真の中の女性を指差した。
美咲は写真を見る。
そして――
息をのんだ。
そこに写っていた女性の顔。
美咲は、その顔を知っていた。
いや。
正確には――
何度も見ていた。
毎週、花を届けに来た人。
花屋で母のDVDを渡してくれた女性。
「……そんな……」
沙織が言った。
「あなたのお母さんは、ずっとあなたの近くにいたの」
美咲の目から涙がこぼれた。
あの花屋の女性。
あの優しい声。
あの時、何も知らないふりをしていた理由。
すべてがつながった。
そして最後に、沙織が一枚の紙を差し出した。
「これが、本当の最後」
そこには、母の文字でこう書かれていた。
「最後の花が届いたら、私を探してください。」
美咲は顔を上げた。
「最後の花……?」
その瞬間。
家の外から車の音が聞こえた。
沙織が窓の外を見る。
そして、顔色を変えた。
「……来た」
「誰が?」
沙織は答えない。
ただ、美咲の手を強く握った。
「美咲。何があっても、今度は逃げないで」
玄関のドアが開いた。
ゆっくりと足音が近づいてくる。
そして――
部屋の入口に、一人の女性が立った。
美咲は、その顔を見た。
「……お母さん?」
女性の目から、涙がこぼれた。
「美咲……」
母は、震える声で言った。
「やっと……会えたね」
その手には――
一輪の白い花が握られていた。
――15話へ続く。