「お母さん……?」
美咲の声は、震えていた。
目の前にいる女性は、何も言わずに涙を流している。
15年間。
死んだと思っていた。
もう二度と会えないと思っていた。
それなのに――
ずっと近くにいた。
花を届けてくれていたのも、この人だった。
「どうして……今まで……」
美咲が尋ねると、母はゆっくりと口を開いた。
「怖かったの」
「何が?」
「あなたが、あの夜のことを思い出してしまうことが」
母は白い花をテーブルに置いた。
「15年前、あなたは何も悪くなかった。でも、あなたは見てしまったの」
「何を?」
母は、しばらく黙っていた。
そして、ようやく話し始めた。
「あの男は、あなたのお父さんを脅していたの」
「……私のお父さんを?」
「あなたが生まれた秘密を知っていたから」
美咲は息をのんだ。
「あなたを産んだ女性は、あの男と関係があった。でも、あなたが生まれた時、その女性はあなたを育てることができなかった」
「だから……私を?」
「私が引き取ったの」
母の目から、また涙が落ちた。
「私はあなたを産んでいない。でも、あなたを抱いたあの日から、本当の娘だと思っていた」
美咲は何も言えなかった。
これまで「嘘」だと思っていたものの中に、母の愛情があった。
母は続けた。
「15年前、あの男はあなたに全部話そうとした」
「……だから、あの夜」
「そう」
あの雨の夜。
男は美咲に真実を話そうとしていた。
そこへ夫が現れた。
そして、父も。
けれど――
誰も美咲を傷つけようとはしていなかった。
むしろ全員が、違う方法で美咲を守ろうとしていた。
「じゃあ……夫は?」
「あなたを守るために、ずっと嘘をついていた」
「沙織は?」
母は静かに微笑んだ。
「沙織も、あなたを守るために記憶を消した」
美咲は目を閉じた。
「……みんな、勝手だよ」
「うん」
「私に何も言わずに……全部決めて」
「うん」
「私が何も知らないまま生きることが、本当に私のためだったの?」
母は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「……ごめんなさい」
母が頭を下げた。
美咲は涙を拭った。
そして、母の手を握った。
「もういいよ」
母が顔を上げる。
「でも……もう隠さないで」
「ええ」
その時だった。
玄関の外から、足音が聞こえた。
二人が振り返る。
ドアが開く。
そこに立っていたのは――
あの男だった。
「……久しぶりだな、美咲」
美咲は驚かなかった。
もう、逃げなかった。
「あなたは、死んだことになっていたんだよね」
「ああ」
「どうして?」
男は少し笑った。
「君のお母さんが、そうしてくれた」
そして、母を見た。
「15年前、俺が消えなければ、美咲は狙われ続けていた」
美咲は聞いた。
「じゃあ……花は?」
男は答えなかった。
代わりに母が言った。
「あなたが大人になって、自分で真実を知りたいと思った時に、花を届けるようお願いしていたの」
「だから毎週……?」
「ええ」
母は白い花を見つめた。
「一週間に一度。あなたが忘れたままでも、いつか思い出す日が来るように」
美咲は花を手に取った。
これまで不気味だった花。
怖かった花。
けれど今は違った。
そこには、15年間の母の想いが詰まっていた。
「じゃあ……今日届いた花が最後なの?」
母は微笑んだ。
「ええ」
美咲は花を胸元に抱えた。
そして気づいた。
花には、小さなカードが結びつけられていた。
今までのカードとは違う。
そこには一言だけ。
「もう、あなたは忘れなくていい。」
美咲の目から涙がこぼれた。
母がそっと抱きしめる。
15年前から止まっていた時間が、ようやく動き始めた気がした。
あの夜のことも。
自分がどこから来たのかも。
母がなぜ死んだことになったのかも。
全部知った。
それでも――
美咲の人生は、ここから続いていく。
窓の外を見る。
夕暮れの空に、雨上がりの光が差し込んでいた。
テーブルの上には、最後の一輪。
白い花が、静かに揺れている。
美咲はその花を見つめて、初めて笑った。
そして、心の中で母に伝えた。
――ありがとう。
15年間、私を忘れないでいてくれて。
その時、美咲は気づいた。
花は、真実を知らせるために届いていたんじゃない。
ずっと――
「あなたは一人じゃない」と伝えるために、届いていたのだ。
そして、美咲は最後に、その花をそっと窓辺に置いた。
もう、誰かが届けてくれるのを待つ必要はない。
自分の手で、未来を選べるから。
窓から入った風が、花びらを一枚だけ揺らした。
美咲は微笑んだ。
そして――
今度は私が、誰かに花を届けようと思った。
――『毎週とどく花』 完