私は、母との電話を切ったあとも、しばらく動けなかった。
「あの家から戻ってきた」
母は、確かにそう言った。
十五年前。
午後三時。
私は莉奈の家にいて、そこから戻ってきた。
なのに、私にはその記憶がない。
覚えているのは、14時58分の写真だけ。
その先は、まるで映像が途切れたように何もない。
私は机の上に、赤い髪留めと青いキーホルダーを並べた。
どちらにも、RとMの文字が刻まれている。
莉奈と、私。
二人の名前。
けれど、どうして両方に同じ二つの文字があるのだろう。
私は、ふと思った。
もしかすると――
この二つは、最初から別々の持ち主のものではなかったのかもしれない。
翌朝、私は母の家へ向かった。
電話では、これ以上話してくれない気がしたからだ。
玄関を開けた母は、私を見るなり顔をこわばらせた。
「……どうしたの、急に」
「昨日の話の続きを聞きに来た」
母は視線を落とした。
「もう、いいでしょう」
「よくないよ」
私は靴を脱いだ。
「お母さんは、私が莉奈の家から戻ってきたって言ったよね」
「……言ったわね」
「何時に?」
母は答えなかった。
「三時?」
「正確には覚えていない」
「じゃあ、どうして私が戻ってきたって分かるの?」
母は唇を結んだ。
私は一歩、母に近づいた。
「私が帰ってきたとき、どんな様子だった?」
「……普通だったわよ」
「普通?」
「ええ。怪我もしていなかったし、泣いてもいなかった」
「じゃあ、どうして忘れたほうがいいなんて言ったの?」
母の目が揺れた。
「あなたは、その日のことを何も話さなかった」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
母は、苦しそうに息を吐いた。
「あなたは、莉奈ちゃんの名前を聞くと、ひどく怯えたの」
私は言葉を失った。
「でも、あの日からしばらくして……あなたは莉奈ちゃんのことを、何も言わなくなった」
「忘れたから?」
「そう思っていた」
母は私を見た。
「忘れたのなら、そのままにしておいたほうがいいと思ったの」
「……お母さんは、私が何を見たと思ってるの?」
母は答えなかった。
その沈黙が、何よりも怖かった。
「ひとつだけ、確認させて」
私はバッグから、14時58分の写真を取り出した。
「この写真、覚えてる?」
母は写真を見た。
そして、すぐに目を逸らした。
「……知らないわ」
「本当に?」
「ええ」
「この家の前に、私はいたんだよね」
母は何も言わなかった。
「写真を撮ったのは私。そう考えるのが自然だよね?」
「……そうね」
「じゃあ、これを撮ったあと、私は家に戻った?」
母の指先が、かすかに震えた。
「そうよ」
「何分で?」
「そんなこと、覚えていないわ」
「二分間だよ」
私は写真を指で押さえた。
「14時58分から15時まで。たった二分間」
母は、目を閉じた。
「その二分間に、私は何をしたの?」
「……もう、やめて」
初めて聞く声だった。
怒っているのではない。
怯えている。
私は、それでも聞いた。
「私が何をしたのか、知ってるんでしょう?」
母は首を横に振った。
「全部は知らない」
「全部は?」
母は、しまったという顔をした。
私は聞き逃さなかった。
「じゃあ、何を知ってるの?」
長い沈黙のあと、母は小さく答えた。
「……あなたが、ひとりで帰ってきたこと」
「莉奈は?」
母の目から、涙がこぼれた。
「莉奈ちゃんは、一緒じゃなかった」
私は写真を握りしめた。
「どうして?」
「分からないの」
「お母さん!」
思わず声が大きくなった。
母は肩を震わせた。
「ごめんなさい……でも、本当に分からないのよ」
そして、母は私の顔を見て言った。
「ただ、あなたは帰ってきたとき、こう言ったの」
「……何て?」
母の唇が震えた。
「『莉奈は、私じゃない』って」
息が止まった。
「……どういう意味?」
「分からない」
母は首を振った。
「何度聞いても、それしか言わなかった」
私は、赤い髪留めを握りしめた。
私が莉奈じゃない。
それとも――
莉奈が、私じゃない?
家に戻ると、私は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っ張り出した。
小学校の通知表。
卒業文集。
使いかけのノート。
その中に、見覚えのない薄い冊子が挟まっていた。
表紙には、私の名前が書かれている。
小学校六年生のときの自由研究。
題名は、たった一言。
「わたしたち」
私はページをめくった。
最初のページには、子どもの字でこう書かれていた。
『わたしには、とてもよくにている友だちがいます』
その下に、二人の女の子の絵が描かれていた。
長い髪。
同じ背丈。
同じ服。
片方の胸元には赤い丸。
もう片方には青い丸。
私はページをめくった。
『わたしたちは、よくまちがえられます』
『おとなも、どっちがどっちかわからなくなることがあります』
『だから、赤と青をきめました』
私は息を止めた。
赤と青。
髪留めとキーホルダー。
そこまでは、ただの子どもの遊びだったのかもしれない。
けれど、次のページを見た瞬間、指が止まった。
そこには、二人の女の子の名前が書かれていた。
ひとりは、莉奈。
もうひとりは――
私の名前。
そして、その下に、赤い鉛筆で何度もなぞられた一文があった。
『まちがえたままにしておけば、だれもかなしくならない』
私は、その言葉を何度も読み返した。
どういう意味?
誰が、何を間違えたの?
最後のページには、日付が書かれていた。
十五年前、七月二十四日。
火事が起きた日だった。
その下には、鉛筆で小さく、こう書かれていた。
『三時になったら、ほんとうのことをいう』
私は冊子を落としそうになった。
莉奈は、あの日。
三時に、私へ何かを伝えようとしていた。
それは、母が恐れていたこと。
そして、私が忘れてしまったこと。
私は、もう一度、自由研究の最初のページを見た。
二人の女の子。
赤と青。
同じ背丈。
同じ服。
絵の端に、小さな文字があった。
今まで、絵の飾りだと思っていた。
でも、それは文字だった。
『ひだりが、わたし』
私は顔を上げた。
左側。
写真の中で、莉奈はいつも私の左側にいた。
私が無意識に空けていた場所。
窓の傷。
二つの名前が刻まれた髪留めとキーホルダー。
そして、母が言った言葉。
――「莉奈は、私じゃない」
私は震える手で、自由研究を閉じた。
そのとき、最後のページの裏側に、何かが透けていることに気づいた。
紙を光にかざす。
裏側から、強く押しつけて書いた文字が浮かび上がった。
消しゴムで消した跡。
それでも、かろうじて読めた。
『もし、わたしが帰ってこなかったら』
その続きは、破り取られていた。
私は、しばらくその紙を見つめていた。
そして、ようやく気づいた。
十五年前の二分間に起きたことを、私は思い出そうとしているんじゃない。
私は、あの日の自分が何を決めたのかを、思い出そうとしているのだ。