あの家には、誰も住んでいない|第7話 もう一人の私

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私は、母との電話を切ったあとも、しばらく動けなかった。

「あの家から戻ってきた」

母は、確かにそう言った。

十五年前。

午後三時。

私は莉奈の家にいて、そこから戻ってきた。

なのに、私にはその記憶がない。

覚えているのは、14時58分の写真だけ。

その先は、まるで映像が途切れたように何もない。

私は机の上に、赤い髪留めと青いキーホルダーを並べた。

どちらにも、RとMの文字が刻まれている。

莉奈と、私。

二人の名前。

けれど、どうして両方に同じ二つの文字があるのだろう。

私は、ふと思った。

もしかすると――

この二つは、最初から別々の持ち主のものではなかったのかもしれない。


翌朝、私は母の家へ向かった。

電話では、これ以上話してくれない気がしたからだ。

玄関を開けた母は、私を見るなり顔をこわばらせた。

「……どうしたの、急に」

「昨日の話の続きを聞きに来た」

母は視線を落とした。

「もう、いいでしょう」

「よくないよ」

私は靴を脱いだ。

「お母さんは、私が莉奈の家から戻ってきたって言ったよね」

「……言ったわね」

「何時に?」

母は答えなかった。

「三時?」

「正確には覚えていない」

「じゃあ、どうして私が戻ってきたって分かるの?」

母は唇を結んだ。

私は一歩、母に近づいた。

「私が帰ってきたとき、どんな様子だった?」

「……普通だったわよ」

「普通?」

「ええ。怪我もしていなかったし、泣いてもいなかった」

「じゃあ、どうして忘れたほうがいいなんて言ったの?」

母の目が揺れた。

「あなたは、その日のことを何も話さなかった」

「それだけ?」

「それだけじゃない」

母は、苦しそうに息を吐いた。

「あなたは、莉奈ちゃんの名前を聞くと、ひどく怯えたの」

私は言葉を失った。

「でも、あの日からしばらくして……あなたは莉奈ちゃんのことを、何も言わなくなった」

「忘れたから?」

「そう思っていた」

母は私を見た。

「忘れたのなら、そのままにしておいたほうがいいと思ったの」

「……お母さんは、私が何を見たと思ってるの?」

母は答えなかった。

その沈黙が、何よりも怖かった。


「ひとつだけ、確認させて」

私はバッグから、14時58分の写真を取り出した。

「この写真、覚えてる?」

母は写真を見た。

そして、すぐに目を逸らした。

「……知らないわ」

「本当に?」

「ええ」

「この家の前に、私はいたんだよね」

母は何も言わなかった。

「写真を撮ったのは私。そう考えるのが自然だよね?」

「……そうね」

「じゃあ、これを撮ったあと、私は家に戻った?」

母の指先が、かすかに震えた。

「そうよ」

「何分で?」

「そんなこと、覚えていないわ」

「二分間だよ」

私は写真を指で押さえた。

「14時58分から15時まで。たった二分間」

母は、目を閉じた。

「その二分間に、私は何をしたの?」

「……もう、やめて」

初めて聞く声だった。

怒っているのではない。

怯えている。

私は、それでも聞いた。

「私が何をしたのか、知ってるんでしょう?」

母は首を横に振った。

「全部は知らない」

「全部は?」

母は、しまったという顔をした。

私は聞き逃さなかった。

「じゃあ、何を知ってるの?」

長い沈黙のあと、母は小さく答えた。

「……あなたが、ひとりで帰ってきたこと」

「莉奈は?」

母の目から、涙がこぼれた。

「莉奈ちゃんは、一緒じゃなかった」

私は写真を握りしめた。

「どうして?」

「分からないの」

「お母さん!」

思わず声が大きくなった。

母は肩を震わせた。

「ごめんなさい……でも、本当に分からないのよ」

そして、母は私の顔を見て言った。

「ただ、あなたは帰ってきたとき、こう言ったの」

「……何て?」

母の唇が震えた。

「『莉奈は、私じゃない』って」

息が止まった。

「……どういう意味?」

「分からない」

母は首を振った。

「何度聞いても、それしか言わなかった」

私は、赤い髪留めを握りしめた。

私が莉奈じゃない。

それとも――

莉奈が、私じゃない?


家に戻ると、私は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っ張り出した。

小学校の通知表。

卒業文集。

使いかけのノート。

その中に、見覚えのない薄い冊子が挟まっていた。

表紙には、私の名前が書かれている。

小学校六年生のときの自由研究。

題名は、たった一言。

「わたしたち」

私はページをめくった。

最初のページには、子どもの字でこう書かれていた。

『わたしには、とてもよくにている友だちがいます』

その下に、二人の女の子の絵が描かれていた。

長い髪。

同じ背丈。

同じ服。

片方の胸元には赤い丸。

もう片方には青い丸。

私はページをめくった。

『わたしたちは、よくまちがえられます』

『おとなも、どっちがどっちかわからなくなることがあります』

『だから、赤と青をきめました』

私は息を止めた。

赤と青。

髪留めとキーホルダー。

そこまでは、ただの子どもの遊びだったのかもしれない。

けれど、次のページを見た瞬間、指が止まった。

そこには、二人の女の子の名前が書かれていた。

ひとりは、莉奈。

もうひとりは――

私の名前。

そして、その下に、赤い鉛筆で何度もなぞられた一文があった。

『まちがえたままにしておけば、だれもかなしくならない』

私は、その言葉を何度も読み返した。

どういう意味?

誰が、何を間違えたの?

最後のページには、日付が書かれていた。

十五年前、七月二十四日。

火事が起きた日だった。

その下には、鉛筆で小さく、こう書かれていた。

『三時になったら、ほんとうのことをいう』

私は冊子を落としそうになった。

莉奈は、あの日。

三時に、私へ何かを伝えようとしていた。

それは、母が恐れていたこと。

そして、私が忘れてしまったこと。


私は、もう一度、自由研究の最初のページを見た。

二人の女の子。

赤と青。

同じ背丈。

同じ服。

絵の端に、小さな文字があった。

今まで、絵の飾りだと思っていた。

でも、それは文字だった。

『ひだりが、わたし』

私は顔を上げた。

左側。

写真の中で、莉奈はいつも私の左側にいた。

私が無意識に空けていた場所。

窓の傷。

二つの名前が刻まれた髪留めとキーホルダー。

そして、母が言った言葉。

――「莉奈は、私じゃない」

私は震える手で、自由研究を閉じた。

そのとき、最後のページの裏側に、何かが透けていることに気づいた。

紙を光にかざす。

裏側から、強く押しつけて書いた文字が浮かび上がった。

消しゴムで消した跡。

それでも、かろうじて読めた。

『もし、わたしが帰ってこなかったら』

その続きは、破り取られていた。

私は、しばらくその紙を見つめていた。

そして、ようやく気づいた。

十五年前の二分間に起きたことを、私は思い出そうとしているんじゃない。

私は、あの日の自分が何を決めたのかを、思い出そうとしているのだ。