あの家には、誰も住んでいない|第6話 交換

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赤い髪留めを握ったまま、私は動けなかった。

窓の外を見る。

誰もいない。

街灯に照らされた道路があるだけ。

それなのに――

どうしてこれが、ここにある?

私は髪留めをもう一度見た。

小さな傷。

右側に一本。

その下に、もう一本。

見覚えがある。

昔の写真に写っていたものと同じだ。

「……莉奈の?」

そう呟いた瞬間。

また、記憶が浮かんだ。


『これ、交換しよう』

莉奈が赤いキーホルダーを差し出している。

私は青いキーホルダーを握っている。

『なんで?』

『だって、もし離れても分かるじゃん』

『何が?』

莉奈は笑った。

『私たちだって』

私は意味が分からなくて笑った。

『変なの』

『変じゃないよ』

莉奈は赤いキーホルダーを私の手に乗せた。

『これ、持ってて』

『じゃあ、莉奈は?』

『私は青いの』

莉奈が私の手から青いキーホルダーを取る。

その瞬間――

私は首を横に振っていた。

『やっぱり嫌』

『なんで?』

『……だって』

言葉が出てこない。

莉奈が私を見る。

『だって、これを持ってたら……』

私は泣いていた。

『私が莉奈じゃないって、分かっちゃうから』


「……え?」

私は目を開けた。

心臓が激しく鳴っている。

今の記憶は何?

「私が……莉奈じゃない?」

意味が分からない。

当たり前だ。

私は私。

莉奈は莉奈。

そんなこと、考える必要もない。

なのに――

なぜ私は、そんなことを言った?


私は翌朝、昔の写真を全部並べた。

小学校。

中学校。

卒業式。

家族写真。

友達との写真。

莉奈が写っている写真を一枚ずつ確認する。

そして、気づいた。

赤い髪留めをつけている莉奈の写真。

青いキーホルダーを持っている私の写真。

二人が一緒に写っている写真。

そこには、ある共通点があった。

莉奈はいつも、私の左側にいる。

逆はない。

私は写真を一枚持ち上げた。

「……なんで?」

たまたま。

そう思いたかった。

でも、次の写真も。

その次も。

全部同じだった。

莉奈は私の左側。

そして私は――

無意識に、左側を少し空けて立っている。

まるでそこに、

誰かがいることを知っているみたいに。


私は母に電話をかけた。

「もしもし?」

「お母さん」

「どうしたの?」

「聞きたいことがある」

母は少し笑った。

「急にどうしたの」

「莉奈のこと」

その瞬間、電話の向こうが静かになった。

ほんの数秒。

でも、私は分かった。

母は何かを考えている。

「……また莉奈ちゃんの話?」

「うん」

「もう昔のことでしょう」

「そうやって、いつも終わらせるよね」

母が黙った。

私は続けた。

「佐伯さんに会ってきた」

「……佐伯さん?」

「うん。莉奈が亡くなる前のことを聞いた」

母の声が少し低くなった。

「何を聞いたの?」

「莉奈が最後の一週間、毎日のように私に会いに来てたって」

沈黙。

「……そう」

「知ってたの?」

「ええ」

即答だった。

私は息を止めた。

「知ってたんだ」

「……知ってた」

「じゃあ、なんで教えてくれなかったの?」

母は答えない。

「私、莉奈が毎日来てたことすら知らなかった」

「あなたには言わなかったから」

「誰が?」

「私が」

胸の奥がざわついた。

「どうして?」

「……会わせたくなかったの」

「なんで?」

「あなたが、あの頃のあなたじゃなかったから」

意味が分からなかった。

「どういうこと?」

「あなたは、あの一週間……ずっと怯えてた」

「私が?」

「夜になると泣いてた」

「……嘘」

「嘘じゃない」

母の声が震えた。

「何度も『莉奈が来る』って言ってた」

私は黙った。

「でも、莉奈が来ても、あなたは会おうとしなかった」

「私が?」

「ええ」

「どうして?」

「それを聞いても、あなたは答えなかった」

私は息を呑んだ。

「じゃあ……私は莉奈を嫌ってたの?」

「違う」

母はすぐに否定した。

「嫌ってなんかいなかった」

「じゃあ、なんで?」

長い沈黙。

やがて母が言った。

「莉奈ちゃんが来るたびに、あなたは同じことを言ってた」

「何て?」

「……『今日は会えない』って」

私は言葉を失った。

「私が……?」

「そう」

「でも、莉奈は?」

「何度もあなたの部屋の窓を見てた」

母の声が少しずつ小さくなる。

「あなたが窓を開けるのを待ってた」

私は、佐伯さんの言葉を思い出した。

――莉奈ちゃんは、あなたの家の窓をずっと見ていた。

「お母さん」

私は聞いた。

「莉奈は、何をしに来てたの?」

母は答えなかった。

「何を話そうとしてたの?」

沈黙。

「お母さん」

「……あなたを連れて行こうとしてたの」

「どこへ?」

母の呼吸が止まったように聞こえた。

「……あの家」

心臓が跳ねた。

「あの家って?」

母は答えない。

「莉奈の家?」

「……そう」

私は背筋が冷たくなった。

「何で?」

「分からない」

「嘘」

「本当に分からないの」

母の声が震えた。

「ただ、あの日の午後、莉奈ちゃんから電話があった」

「私に?」

「違う。私に」

「何て言ったの?」

母はしばらく黙っていた。

そして、低い声で言った。

「『三時になったら、絶対に来てください』って」

「誰が?」

「……あなたを連れて」

私は息を止めた。

「私を?」

「ええ」

「だから、お母さんは私を行かせなかったの?」

「……そう」

「でも、どうして?」

母は答えなかった。

私は何度も聞いた。

「どうして?」

「……怖かったのよ」

「何が?」

「莉奈ちゃんが、あなたに何を見せようとしていたのか」

その言葉に、私は凍りついた。

「何を……見せるの?」

「それは分からない」

「お母さんは見たの?」

「……見てない」

「じゃあ、なんでそんなこと言えるの?」

母は黙った。

私は、ふと気づいた。

「お母さん」

「なに?」

「私が3時に莉奈のところへ行かなかったって、前に言ったよね」

「……ええ」

「でも」

私は写真を見る。

14時58分。

「私、14時58分には莉奈の家の前にいた」

母の息を呑む音が聞こえた。

「……そう」

「知ってた?」

返事がない。

「お母さん」

「……知らなかった」

その声は、明らかに嘘だった。

私は確信した。

母は知っている。

私が14時58分に、あの家の前にいたことを。

そして――

その後の二分間に何があったのかも。

「お母さん」

私はゆっくり聞いた。

「私、3時までの二分間に何をしたの?」

長い沈黙。

やがて母が、かすかな声で言った。

「……あなたは、戻ってきたのよ」

「どこから?」

「……あの家から」

電話の向こうで、母が泣き始めた。

「だから私は、あなたに忘れてほしかった」

私は何も言えなかった。

「忘れたほうがいいと思ったの」

母の声が震える。

「莉奈ちゃんのことも」

「……お母さん」

「全部」

私はスマホを握りしめた。

「でも」

母が言った。

「ひとつだけ、どうしても消せなかった」

「何?」

「あなたが帰ってきたとき――」

母が息を詰まらせる。

「あなたの手に、莉奈ちゃんの赤い髪留めが握られてた」

私は、手の中を見る。

昨夜、窓に引っかかっていた赤い髪留め。

その傷。

二つの名前。

そして――

母の言葉。

私は初めて気づいた。

この髪留めは、

昨日突然現れたものじゃない。

私は十五年前から、これを持っていた。