赤い髪留めを握ったまま、私は動けなかった。
窓の外を見る。
誰もいない。
街灯に照らされた道路があるだけ。
それなのに――
どうしてこれが、ここにある?
私は髪留めをもう一度見た。
小さな傷。
右側に一本。
その下に、もう一本。
見覚えがある。
昔の写真に写っていたものと同じだ。
「……莉奈の?」
そう呟いた瞬間。
また、記憶が浮かんだ。
『これ、交換しよう』
莉奈が赤いキーホルダーを差し出している。
私は青いキーホルダーを握っている。
『なんで?』
『だって、もし離れても分かるじゃん』
『何が?』
莉奈は笑った。
『私たちだって』
私は意味が分からなくて笑った。
『変なの』
『変じゃないよ』
莉奈は赤いキーホルダーを私の手に乗せた。
『これ、持ってて』
『じゃあ、莉奈は?』
『私は青いの』
莉奈が私の手から青いキーホルダーを取る。
その瞬間――
私は首を横に振っていた。
『やっぱり嫌』
『なんで?』
『……だって』
言葉が出てこない。
莉奈が私を見る。
『だって、これを持ってたら……』
私は泣いていた。
『私が莉奈じゃないって、分かっちゃうから』
「……え?」
私は目を開けた。
心臓が激しく鳴っている。
今の記憶は何?
「私が……莉奈じゃない?」
意味が分からない。
当たり前だ。
私は私。
莉奈は莉奈。
そんなこと、考える必要もない。
なのに――
なぜ私は、そんなことを言った?
私は翌朝、昔の写真を全部並べた。
小学校。
中学校。
卒業式。
家族写真。
友達との写真。
莉奈が写っている写真を一枚ずつ確認する。
そして、気づいた。
赤い髪留めをつけている莉奈の写真。
青いキーホルダーを持っている私の写真。
二人が一緒に写っている写真。
そこには、ある共通点があった。
莉奈はいつも、私の左側にいる。
逆はない。
私は写真を一枚持ち上げた。
「……なんで?」
たまたま。
そう思いたかった。
でも、次の写真も。
その次も。
全部同じだった。
莉奈は私の左側。
そして私は――
無意識に、左側を少し空けて立っている。
まるでそこに、
誰かがいることを知っているみたいに。
私は母に電話をかけた。
「もしもし?」
「お母さん」
「どうしたの?」
「聞きたいことがある」
母は少し笑った。
「急にどうしたの」
「莉奈のこと」
その瞬間、電話の向こうが静かになった。
ほんの数秒。
でも、私は分かった。
母は何かを考えている。
「……また莉奈ちゃんの話?」
「うん」
「もう昔のことでしょう」
「そうやって、いつも終わらせるよね」
母が黙った。
私は続けた。
「佐伯さんに会ってきた」
「……佐伯さん?」
「うん。莉奈が亡くなる前のことを聞いた」
母の声が少し低くなった。
「何を聞いたの?」
「莉奈が最後の一週間、毎日のように私に会いに来てたって」
沈黙。
「……そう」
「知ってたの?」
「ええ」
即答だった。
私は息を止めた。
「知ってたんだ」
「……知ってた」
「じゃあ、なんで教えてくれなかったの?」
母は答えない。
「私、莉奈が毎日来てたことすら知らなかった」
「あなたには言わなかったから」
「誰が?」
「私が」
胸の奥がざわついた。
「どうして?」
「……会わせたくなかったの」
「なんで?」
「あなたが、あの頃のあなたじゃなかったから」
意味が分からなかった。
「どういうこと?」
「あなたは、あの一週間……ずっと怯えてた」
「私が?」
「夜になると泣いてた」
「……嘘」
「嘘じゃない」
母の声が震えた。
「何度も『莉奈が来る』って言ってた」
私は黙った。
「でも、莉奈が来ても、あなたは会おうとしなかった」
「私が?」
「ええ」
「どうして?」
「それを聞いても、あなたは答えなかった」
私は息を呑んだ。
「じゃあ……私は莉奈を嫌ってたの?」
「違う」
母はすぐに否定した。
「嫌ってなんかいなかった」
「じゃあ、なんで?」
長い沈黙。
やがて母が言った。
「莉奈ちゃんが来るたびに、あなたは同じことを言ってた」
「何て?」
「……『今日は会えない』って」
私は言葉を失った。
「私が……?」
「そう」
「でも、莉奈は?」
「何度もあなたの部屋の窓を見てた」
母の声が少しずつ小さくなる。
「あなたが窓を開けるのを待ってた」
私は、佐伯さんの言葉を思い出した。
――莉奈ちゃんは、あなたの家の窓をずっと見ていた。
「お母さん」
私は聞いた。
「莉奈は、何をしに来てたの?」
母は答えなかった。
「何を話そうとしてたの?」
沈黙。
「お母さん」
「……あなたを連れて行こうとしてたの」
「どこへ?」
母の呼吸が止まったように聞こえた。
「……あの家」
心臓が跳ねた。
「あの家って?」
母は答えない。
「莉奈の家?」
「……そう」
私は背筋が冷たくなった。
「何で?」
「分からない」
「嘘」
「本当に分からないの」
母の声が震えた。
「ただ、あの日の午後、莉奈ちゃんから電話があった」
「私に?」
「違う。私に」
「何て言ったの?」
母はしばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「『三時になったら、絶対に来てください』って」
「誰が?」
「……あなたを連れて」
私は息を止めた。
「私を?」
「ええ」
「だから、お母さんは私を行かせなかったの?」
「……そう」
「でも、どうして?」
母は答えなかった。
私は何度も聞いた。
「どうして?」
「……怖かったのよ」
「何が?」
「莉奈ちゃんが、あなたに何を見せようとしていたのか」
その言葉に、私は凍りついた。
「何を……見せるの?」
「それは分からない」
「お母さんは見たの?」
「……見てない」
「じゃあ、なんでそんなこと言えるの?」
母は黙った。
私は、ふと気づいた。
「お母さん」
「なに?」
「私が3時に莉奈のところへ行かなかったって、前に言ったよね」
「……ええ」
「でも」
私は写真を見る。
14時58分。
「私、14時58分には莉奈の家の前にいた」
母の息を呑む音が聞こえた。
「……そう」
「知ってた?」
返事がない。
「お母さん」
「……知らなかった」
その声は、明らかに嘘だった。
私は確信した。
母は知っている。
私が14時58分に、あの家の前にいたことを。
そして――
その後の二分間に何があったのかも。
「お母さん」
私はゆっくり聞いた。
「私、3時までの二分間に何をしたの?」
長い沈黙。
やがて母が、かすかな声で言った。
「……あなたは、戻ってきたのよ」
「どこから?」
「……あの家から」
電話の向こうで、母が泣き始めた。
「だから私は、あなたに忘れてほしかった」
私は何も言えなかった。
「忘れたほうがいいと思ったの」
母の声が震える。
「莉奈ちゃんのことも」
「……お母さん」
「全部」
私はスマホを握りしめた。
「でも」
母が言った。
「ひとつだけ、どうしても消せなかった」
「何?」
「あなたが帰ってきたとき――」
母が息を詰まらせる。
「あなたの手に、莉奈ちゃんの赤い髪留めが握られてた」
私は、手の中を見る。
昨夜、窓に引っかかっていた赤い髪留め。
その傷。
二つの名前。
そして――
母の言葉。
私は初めて気づいた。
この髪留めは、
昨日突然現れたものじゃない。
私は十五年前から、これを持っていた。