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  • あの家には、誰も住んでいない|第8話 赤と青

    『まちがえたままにしておけば、だれもかなしくならない』

    私は、その一文を何度も読み返していた。

    小学生が書いた自由研究にしては、妙に大人びた言葉だった。

    しかも、十五年前の七月二十四日。

    火事が起きた日と同じ日付。

    『三時になったら、ほんとうのことをいう』

    莉奈は、あの日、私に何を話すつもりだったのだろう。

    そして私は、何を決めたのだろう。

    考えれば考えるほど、頭の中が霧に覆われていく。

    私は自由研究を閉じ、もう一度、最初のページを開いた。

    二人の女の子が描かれている。

    赤い丸と、青い丸。

    その下に、小さな字で名前が書かれていた。

    莉奈。

    そして、私の名前。

    私は絵をじっと見つめた。

    二人はよく似ている。

    けれど、同じではない。

    髪の長さも、目の形も、よく見れば違っている。

    それなのに、なぜ大人まで間違えるのだろう。

    私は、ページの隅に書かれた文字を見つけた。

    『ひだりが、わたし』

    その下には、もう一行あった。

    薄くて、今まで気づかなかった。

    『みぎは、莉奈』

    私は息を止めた。

    左が私。

    右が莉奈。

    ただ、それだけのことだ。

    なのに、胸の奥がひどくざわついた。


    私は、母に電話をかけた。

    今度こそ、曖昧な返事で終わらせるつもりはなかった。

    「もしもし?」

    「お母さん。小学校の自由研究が出てきた」

    電話の向こうで、母が黙った。

    「赤と青のこと、覚えてる?」

    「……何の話?」

    「私と莉奈が、赤と青を決めていたこと」

    「子どもの頃の遊びでしょう」

    「そうなのかな」

    私は冊子を開いた。

    「自由研究に書いてあったよ。私たちはよく間違えられたって」

    母は答えなかった。

    「誰に間違えられてたの?」

    「……いろんな人に、よ」

    「お母さんも?」

    長い沈黙があった。

    「……ええ」

    私は思わず立ち上がった。

    「お母さんも間違えたの?」

    「小さい頃はね」

    「どうやって?」

    母の声が、少しずつ弱くなった。

    「後ろ姿だけだと、分からないことがあったのよ」

    「でも、顔を見れば分かるでしょう?」

    「……そうね」

    その答え方が気になった。

    まるで、顔を見ても分からなかったことがあるみたいだった。

    「お母さん」

    私はゆっくり聞いた。

    「私と莉奈って、本当にそんなに似てたの?」

    「似ていたわ」

    「どこが?」

    「顔も、背格好も。小さい頃は特にね」

    「じゃあ、どうして赤と青を決めたの?」

    母は答えなかった。

    私は自由研究のページをめくった。

    「おそろいのものを持つためじゃないよね」

    「……どうしてそう思うの?」

    「両方に、二人の名前が刻まれてたから」

    電話の向こうで、母が息を呑んだ。

    「赤い髪留めにも、青いキーホルダーにも、RとMがある」

    私は続けた。

    「自分のものだって分かるようにするなら、自分の名前だけでいいはずだよね?」

    母は何も言わなかった。

    「どうして、二人の名前が必要だったの?」

    しばらくして、母が小さく言った。

    「……忘れないためよ」

    「何を?」

    「どちらが、どちらなのか」

    私は黙った。

    母は、さらに続けた。

    「昔、あなたたちが自分たちで決めたの。どんなことがあっても、赤と青を取り違えないようにって」

    「どんなことって?」

    「それは……」

    母の声が途切れた。

    「ごめんなさい。もう話せない」

    「どうして?」

    「あなたが思い出したら、きっと……」

    母は最後まで言わなかった。

    けれど、その先の言葉を、私は勝手に想像してしまった。

    思い出したら、きっと私は、何かを失う。

    あるいは、すでに失ったものの正体を知る。

    「お母さん」

    私は言った。

    「私、もう忘れたままではいられない」

    返事はなかった。

    電話が切れたあとも、私はしばらくスマホを握っていた。


    その日の午後、私は昔通っていた小学校へ向かった。

    自由研究を作った頃のことを知る先生が、まだ勤務しているかもしれないと思ったからだ。

    受付で事情を説明すると、当時の担任だった先生が、少しだけ時間を取ってくれた。

    先生は私の顔を見ると、懐かしそうに笑った。

    「久しぶりね。ずいぶん大きくなったわね」

    「先生、ひとつ聞きたいことがあるんです」

    私は自由研究を見せた。

    先生は表紙を見て、すぐに表情を変えた。

    「あら……これ、まだ持っていたの?」

    「覚えてますか?」

    「もちろん。あなたたちが一生懸命作ったものだから」

    「あなたたち?」

    先生は、はっとしたように口を閉じた。

    「……あなたと莉奈ちゃんよ」

    「でも、これを書いたのは私の名前になっています」

    先生は冊子を見つめた。

    「そうね。提出したのは、あなたの名前だったわ」

    「莉奈も一緒に作ったんですか?」

    先生は、すぐには答えなかった。

    「二人で相談しているところは見たことがあるわ。でも、どこまで一緒に作ったのかは、覚えていないの」

    私はページを開いた。

    「先生。私たちって、そんなに似ていましたか?」

    先生は少し困ったように笑った。

    「よく間違えられていたわね」

    「先生も?」

    「ええ。特に、二人が同じ服を着ているときはね」

    「同じ服……」

    「髪型も似ていたし、背も同じくらいだったから」

    私は、あることを思い出した。

    小学校の頃の写真。

    白いシャツ。

    紺色のスカート。

    莉奈が火事の日に着ていたとされる服。

    「先生」

    私は写真を見せた。

    「この服、覚えていますか?」

    先生は写真を見つめた。

    そして、静かに言った。

    「……あの日も、二人とも同じような格好をしていたわ」

    心臓が跳ねた。

    「二人とも?」

    「ええ」

    私は写真を握りしめた。

    「でも、母は莉奈がその服を着ていたって……」

    「莉奈ちゃんも着ていたし、あなたもよく似た服を持っていたでしょう?」

    私は何も言えなかった。

    先生は私の顔を見た。

    「どうしたの?」

    「……いえ」

    私は写真をしまった。

    聞きたいことは、まだあった。

    でも、これ以上聞いたら、何かが決定的に変わってしまう気がした。

    帰ろうとしたとき、先生が私を呼び止めた。

    「そういえば」

    振り返る。

    「火事の少し前、あなたたちが二人で言い争っているのを見たことがあるわ」

    「何を言い争っていたんですか?」

    先生は首を横に振った。

    「そこまでは聞こえなかった。ただ……」

    「ただ?」

    「莉奈ちゃんが、あなたに向かってこう言っていたの」

    先生は、少し考えてから口にした。

    「『今日は、絶対に間違えないでね』って」

    私は、息をするのを忘れた。


    帰宅してすぐ、私は昔の写真を広げた。

    白いシャツ。

    紺色のスカート。

    赤い髪留め。

    青いキーホルダー。

    一枚ずつ確認する。

    すると、小学校最後の夏に撮られた写真の中に、気になるものがあった。

    校庭の隅。

    二人の女の子が並んでいる。

    左側の子は、青いキーホルダーを持っている。

    右側の子は、赤い髪留めをつけている。

    その写真の裏には、母の字でこう書かれていた。

    『左が私、右が莉奈』

    私は写真を裏返した。

    そして、もう一度表を見た。

    左側の女の子。

    顔は、私によく似ている。

    右側の女の子も、私によく似ている。

    私は写真を机に置き、自由研究を開いた。

    『ひだりが、わたし』

    『みぎは、莉奈』

    先生の言葉が頭の中で繰り返された。

    『今日は、絶対に間違えないでね』

    その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

    午後二時五十八分。

    向かい合う二つの窓。

    私は、窓の前に立っている。

    向こう側にいる莉奈が、赤い髪留めを外す。

    そして、私に向かって差し出す。

    『これ、持ってて』

    私は首を横に振る。

    『嫌だ』

    『お願い』

    莉奈の目には、涙が浮かんでいた。

    『今日だけでいいから』

    私は、何かを言おうとした。

    けれど、その言葉は思い出せない。

    代わりに、莉奈の声だけが、はっきりと耳に残った。

    『三時になったら、みんなに本当のことを話すから』

    私は目を開けた。

    手のひらには、爪が食い込んでいた。

    みんなに、本当のことを話す。

    何を?

    誰に?

    そして、私は何を恐れていたのだろう。

    机の上の写真を、もう一度見た。

    母が書いた文字。

    『左が私、右が莉奈』

    私は写真を裏返した。

    その裏側に、鉛筆で書かれた小さな文字があることに気づいた。

    母の字ではない。

    子どもの字だった。

    『もし、みんながまちがえたら』

    その下に、震えるような線で、もう一文。

    『わたしは、莉奈になる』

  • あの家には、誰も住んでいない|第7話 もう一人の私

    私は、母との電話を切ったあとも、しばらく動けなかった。

    「あの家から戻ってきた」

    母は、確かにそう言った。

    十五年前。

    午後三時。

    私は莉奈の家にいて、そこから戻ってきた。

    なのに、私にはその記憶がない。

    覚えているのは、14時58分の写真だけ。

    その先は、まるで映像が途切れたように何もない。

    私は机の上に、赤い髪留めと青いキーホルダーを並べた。

    どちらにも、RとMの文字が刻まれている。

    莉奈と、私。

    二人の名前。

    けれど、どうして両方に同じ二つの文字があるのだろう。

    私は、ふと思った。

    もしかすると――

    この二つは、最初から別々の持ち主のものではなかったのかもしれない。


    翌朝、私は母の家へ向かった。

    電話では、これ以上話してくれない気がしたからだ。

    玄関を開けた母は、私を見るなり顔をこわばらせた。

    「……どうしたの、急に」

    「昨日の話の続きを聞きに来た」

    母は視線を落とした。

    「もう、いいでしょう」

    「よくないよ」

    私は靴を脱いだ。

    「お母さんは、私が莉奈の家から戻ってきたって言ったよね」

    「……言ったわね」

    「何時に?」

    母は答えなかった。

    「三時?」

    「正確には覚えていない」

    「じゃあ、どうして私が戻ってきたって分かるの?」

    母は唇を結んだ。

    私は一歩、母に近づいた。

    「私が帰ってきたとき、どんな様子だった?」

    「……普通だったわよ」

    「普通?」

    「ええ。怪我もしていなかったし、泣いてもいなかった」

    「じゃあ、どうして忘れたほうがいいなんて言ったの?」

    母の目が揺れた。

    「あなたは、その日のことを何も話さなかった」

    「それだけ?」

    「それだけじゃない」

    母は、苦しそうに息を吐いた。

    「あなたは、莉奈ちゃんの名前を聞くと、ひどく怯えたの」

    私は言葉を失った。

    「でも、あの日からしばらくして……あなたは莉奈ちゃんのことを、何も言わなくなった」

    「忘れたから?」

    「そう思っていた」

    母は私を見た。

    「忘れたのなら、そのままにしておいたほうがいいと思ったの」

    「……お母さんは、私が何を見たと思ってるの?」

    母は答えなかった。

    その沈黙が、何よりも怖かった。


    「ひとつだけ、確認させて」

    私はバッグから、14時58分の写真を取り出した。

    「この写真、覚えてる?」

    母は写真を見た。

    そして、すぐに目を逸らした。

    「……知らないわ」

    「本当に?」

    「ええ」

    「この家の前に、私はいたんだよね」

    母は何も言わなかった。

    「写真を撮ったのは私。そう考えるのが自然だよね?」

    「……そうね」

    「じゃあ、これを撮ったあと、私は家に戻った?」

    母の指先が、かすかに震えた。

    「そうよ」

    「何分で?」

    「そんなこと、覚えていないわ」

    「二分間だよ」

    私は写真を指で押さえた。

    「14時58分から15時まで。たった二分間」

    母は、目を閉じた。

    「その二分間に、私は何をしたの?」

    「……もう、やめて」

    初めて聞く声だった。

    怒っているのではない。

    怯えている。

    私は、それでも聞いた。

    「私が何をしたのか、知ってるんでしょう?」

    母は首を横に振った。

    「全部は知らない」

    「全部は?」

    母は、しまったという顔をした。

    私は聞き逃さなかった。

    「じゃあ、何を知ってるの?」

    長い沈黙のあと、母は小さく答えた。

    「……あなたが、ひとりで帰ってきたこと」

    「莉奈は?」

    母の目から、涙がこぼれた。

    「莉奈ちゃんは、一緒じゃなかった」

    私は写真を握りしめた。

    「どうして?」

    「分からないの」

    「お母さん!」

    思わず声が大きくなった。

    母は肩を震わせた。

    「ごめんなさい……でも、本当に分からないのよ」

    そして、母は私の顔を見て言った。

    「ただ、あなたは帰ってきたとき、こう言ったの」

    「……何て?」

    母の唇が震えた。

    「『莉奈は、私じゃない』って」

    息が止まった。

    「……どういう意味?」

    「分からない」

    母は首を振った。

    「何度聞いても、それしか言わなかった」

    私は、赤い髪留めを握りしめた。

    私が莉奈じゃない。

    それとも――

    莉奈が、私じゃない?


    家に戻ると、私は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っ張り出した。

    小学校の通知表。

    卒業文集。

    使いかけのノート。

    その中に、見覚えのない薄い冊子が挟まっていた。

    表紙には、私の名前が書かれている。

    小学校六年生のときの自由研究。

    題名は、たった一言。

    「わたしたち」

    私はページをめくった。

    最初のページには、子どもの字でこう書かれていた。

    『わたしには、とてもよくにている友だちがいます』

    その下に、二人の女の子の絵が描かれていた。

    長い髪。

    同じ背丈。

    同じ服。

    片方の胸元には赤い丸。

    もう片方には青い丸。

    私はページをめくった。

    『わたしたちは、よくまちがえられます』

    『おとなも、どっちがどっちかわからなくなることがあります』

    『だから、赤と青をきめました』

    私は息を止めた。

    赤と青。

    髪留めとキーホルダー。

    そこまでは、ただの子どもの遊びだったのかもしれない。

    けれど、次のページを見た瞬間、指が止まった。

    そこには、二人の女の子の名前が書かれていた。

    ひとりは、莉奈。

    もうひとりは――

    私の名前。

    そして、その下に、赤い鉛筆で何度もなぞられた一文があった。

    『まちがえたままにしておけば、だれもかなしくならない』

    私は、その言葉を何度も読み返した。

    どういう意味?

    誰が、何を間違えたの?

    最後のページには、日付が書かれていた。

    十五年前、七月二十四日。

    火事が起きた日だった。

    その下には、鉛筆で小さく、こう書かれていた。

    『三時になったら、ほんとうのことをいう』

    私は冊子を落としそうになった。

    莉奈は、あの日。

    三時に、私へ何かを伝えようとしていた。

    それは、母が恐れていたこと。

    そして、私が忘れてしまったこと。


    私は、もう一度、自由研究の最初のページを見た。

    二人の女の子。

    赤と青。

    同じ背丈。

    同じ服。

    絵の端に、小さな文字があった。

    今まで、絵の飾りだと思っていた。

    でも、それは文字だった。

    『ひだりが、わたし』

    私は顔を上げた。

    左側。

    写真の中で、莉奈はいつも私の左側にいた。

    私が無意識に空けていた場所。

    窓の傷。

    二つの名前が刻まれた髪留めとキーホルダー。

    そして、母が言った言葉。

    ――「莉奈は、私じゃない」

    私は震える手で、自由研究を閉じた。

    そのとき、最後のページの裏側に、何かが透けていることに気づいた。

    紙を光にかざす。

    裏側から、強く押しつけて書いた文字が浮かび上がった。

    消しゴムで消した跡。

    それでも、かろうじて読めた。

    『もし、わたしが帰ってこなかったら』

    その続きは、破り取られていた。

    私は、しばらくその紙を見つめていた。

    そして、ようやく気づいた。

    十五年前の二分間に起きたことを、私は思い出そうとしているんじゃない。

    私は、あの日の自分が何を決めたのかを、思い出そうとしているのだ。

  • あの家には、誰も住んでいない|第6話 交換

    赤い髪留めを握ったまま、私は動けなかった。

    窓の外を見る。

    誰もいない。

    街灯に照らされた道路があるだけ。

    それなのに――

    どうしてこれが、ここにある?

    私は髪留めをもう一度見た。

    小さな傷。

    右側に一本。

    その下に、もう一本。

    見覚えがある。

    昔の写真に写っていたものと同じだ。

    「……莉奈の?」

    そう呟いた瞬間。

    また、記憶が浮かんだ。


    『これ、交換しよう』

    莉奈が赤いキーホルダーを差し出している。

    私は青いキーホルダーを握っている。

    『なんで?』

    『だって、もし離れても分かるじゃん』

    『何が?』

    莉奈は笑った。

    『私たちだって』

    私は意味が分からなくて笑った。

    『変なの』

    『変じゃないよ』

    莉奈は赤いキーホルダーを私の手に乗せた。

    『これ、持ってて』

    『じゃあ、莉奈は?』

    『私は青いの』

    莉奈が私の手から青いキーホルダーを取る。

    その瞬間――

    私は首を横に振っていた。

    『やっぱり嫌』

    『なんで?』

    『……だって』

    言葉が出てこない。

    莉奈が私を見る。

    『だって、これを持ってたら……』

    私は泣いていた。

    『私が莉奈じゃないって、分かっちゃうから』


    「……え?」

    私は目を開けた。

    心臓が激しく鳴っている。

    今の記憶は何?

    「私が……莉奈じゃない?」

    意味が分からない。

    当たり前だ。

    私は私。

    莉奈は莉奈。

    そんなこと、考える必要もない。

    なのに――

    なぜ私は、そんなことを言った?


    私は翌朝、昔の写真を全部並べた。

    小学校。

    中学校。

    卒業式。

    家族写真。

    友達との写真。

    莉奈が写っている写真を一枚ずつ確認する。

    そして、気づいた。

    赤い髪留めをつけている莉奈の写真。

    青いキーホルダーを持っている私の写真。

    二人が一緒に写っている写真。

    そこには、ある共通点があった。

    莉奈はいつも、私の左側にいる。

    逆はない。

    私は写真を一枚持ち上げた。

    「……なんで?」

    たまたま。

    そう思いたかった。

    でも、次の写真も。

    その次も。

    全部同じだった。

    莉奈は私の左側。

    そして私は――

    無意識に、左側を少し空けて立っている。

    まるでそこに、

    誰かがいることを知っているみたいに。


    私は母に電話をかけた。

    「もしもし?」

    「お母さん」

    「どうしたの?」

    「聞きたいことがある」

    母は少し笑った。

    「急にどうしたの」

    「莉奈のこと」

    その瞬間、電話の向こうが静かになった。

    ほんの数秒。

    でも、私は分かった。

    母は何かを考えている。

    「……また莉奈ちゃんの話?」

    「うん」

    「もう昔のことでしょう」

    「そうやって、いつも終わらせるよね」

    母が黙った。

    私は続けた。

    「佐伯さんに会ってきた」

    「……佐伯さん?」

    「うん。莉奈が亡くなる前のことを聞いた」

    母の声が少し低くなった。

    「何を聞いたの?」

    「莉奈が最後の一週間、毎日のように私に会いに来てたって」

    沈黙。

    「……そう」

    「知ってたの?」

    「ええ」

    即答だった。

    私は息を止めた。

    「知ってたんだ」

    「……知ってた」

    「じゃあ、なんで教えてくれなかったの?」

    母は答えない。

    「私、莉奈が毎日来てたことすら知らなかった」

    「あなたには言わなかったから」

    「誰が?」

    「私が」

    胸の奥がざわついた。

    「どうして?」

    「……会わせたくなかったの」

    「なんで?」

    「あなたが、あの頃のあなたじゃなかったから」

    意味が分からなかった。

    「どういうこと?」

    「あなたは、あの一週間……ずっと怯えてた」

    「私が?」

    「夜になると泣いてた」

    「……嘘」

    「嘘じゃない」

    母の声が震えた。

    「何度も『莉奈が来る』って言ってた」

    私は黙った。

    「でも、莉奈が来ても、あなたは会おうとしなかった」

    「私が?」

    「ええ」

    「どうして?」

    「それを聞いても、あなたは答えなかった」

    私は息を呑んだ。

    「じゃあ……私は莉奈を嫌ってたの?」

    「違う」

    母はすぐに否定した。

    「嫌ってなんかいなかった」

    「じゃあ、なんで?」

    長い沈黙。

    やがて母が言った。

    「莉奈ちゃんが来るたびに、あなたは同じことを言ってた」

    「何て?」

    「……『今日は会えない』って」

    私は言葉を失った。

    「私が……?」

    「そう」

    「でも、莉奈は?」

    「何度もあなたの部屋の窓を見てた」

    母の声が少しずつ小さくなる。

    「あなたが窓を開けるのを待ってた」

    私は、佐伯さんの言葉を思い出した。

    ――莉奈ちゃんは、あなたの家の窓をずっと見ていた。

    「お母さん」

    私は聞いた。

    「莉奈は、何をしに来てたの?」

    母は答えなかった。

    「何を話そうとしてたの?」

    沈黙。

    「お母さん」

    「……あなたを連れて行こうとしてたの」

    「どこへ?」

    母の呼吸が止まったように聞こえた。

    「……あの家」

    心臓が跳ねた。

    「あの家って?」

    母は答えない。

    「莉奈の家?」

    「……そう」

    私は背筋が冷たくなった。

    「何で?」

    「分からない」

    「嘘」

    「本当に分からないの」

    母の声が震えた。

    「ただ、あの日の午後、莉奈ちゃんから電話があった」

    「私に?」

    「違う。私に」

    「何て言ったの?」

    母はしばらく黙っていた。

    そして、低い声で言った。

    「『三時になったら、絶対に来てください』って」

    「誰が?」

    「……あなたを連れて」

    私は息を止めた。

    「私を?」

    「ええ」

    「だから、お母さんは私を行かせなかったの?」

    「……そう」

    「でも、どうして?」

    母は答えなかった。

    私は何度も聞いた。

    「どうして?」

    「……怖かったのよ」

    「何が?」

    「莉奈ちゃんが、あなたに何を見せようとしていたのか」

    その言葉に、私は凍りついた。

    「何を……見せるの?」

    「それは分からない」

    「お母さんは見たの?」

    「……見てない」

    「じゃあ、なんでそんなこと言えるの?」

    母は黙った。

    私は、ふと気づいた。

    「お母さん」

    「なに?」

    「私が3時に莉奈のところへ行かなかったって、前に言ったよね」

    「……ええ」

    「でも」

    私は写真を見る。

    14時58分。

    「私、14時58分には莉奈の家の前にいた」

    母の息を呑む音が聞こえた。

    「……そう」

    「知ってた?」

    返事がない。

    「お母さん」

    「……知らなかった」

    その声は、明らかに嘘だった。

    私は確信した。

    母は知っている。

    私が14時58分に、あの家の前にいたことを。

    そして――

    その後の二分間に何があったのかも。

    「お母さん」

    私はゆっくり聞いた。

    「私、3時までの二分間に何をしたの?」

    長い沈黙。

    やがて母が、かすかな声で言った。

    「……あなたは、戻ってきたのよ」

    「どこから?」

    「……あの家から」

    電話の向こうで、母が泣き始めた。

    「だから私は、あなたに忘れてほしかった」

    私は何も言えなかった。

    「忘れたほうがいいと思ったの」

    母の声が震える。

    「莉奈ちゃんのことも」

    「……お母さん」

    「全部」

    私はスマホを握りしめた。

    「でも」

    母が言った。

    「ひとつだけ、どうしても消せなかった」

    「何?」

    「あなたが帰ってきたとき――」

    母が息を詰まらせる。

    「あなたの手に、莉奈ちゃんの赤い髪留めが握られてた」

    私は、手の中を見る。

    昨夜、窓に引っかかっていた赤い髪留め。

    その傷。

    二つの名前。

    そして――

    母の言葉。

    私は初めて気づいた。

    この髪留めは、

    昨日突然現れたものじゃない。

    私は十五年前から、これを持っていた。

  • あの家には、誰も住んでいない|第5話 写っていない私

    写真の中に、莉奈がいる。

    でも、私はいない。

    何度見ても同じだった。

    小学校の頃の写真。

    校庭で笑う莉奈。

    その隣にいるはずの私だけが、いない。

    「……どういうこと?」

    私は写真を指でなぞった。

    写真の端には、莉奈の肩。

    その隣には、不自然なくらい広い空白がある。

    まるで、最初からそこに誰もいなかったみたいに。

    でも――

    私は、この写真を知っている。

    見たことがある。

    そう思った。

    ただ、どこで見たのかが思い出せない。


    私は写真をスマホで撮って、拡大した。

    莉奈がつけている赤い髪留め。

    その横に、小さな青いものが写っている。

    「……これ」

    私は画面を止めた。

    青いキーホルダー。

    3話で見つけた、昔の写真と同じものだった。

    私が持っていたもの。

    莉奈の赤と、私の青。

    二人でおそろいにしたキーホルダー。

    私は急いで昔の箱を開けた。

    小学校の頃から使っていた、古い小物入れ。

    中には、昔の髪ゴムや消しゴム、使いかけのシール。

    そして――

    青いキーホルダー。

    私はそれを手に取った。

    裏返す。

    傷だらけになっている。

    その傷を見た瞬間。

    また、頭の中に何かが浮かんだ。

    午後2時58分。

    莉奈の赤いキーホルダー。

    私の青いキーホルダー。

    二つを並べている。

    そして莉奈が言う。

    『交換しよう』

    「……交換?」

    私は思わず声に出した。

    その瞬間、別の記憶が重なった。

    『嫌だ』

    今度は私の声。

    『どうして?』

    莉奈の声。

    『だって、これがなくなったら……』

    そこで記憶が途切れた。

    私は青いキーホルダーを握りしめた。

    胸がざわつく。

    なぜ私は、これを今まで捨てずに持っていたんだろう。

    なぜ莉奈のものまで、こんなにはっきり覚えているんだろう。


    私は翌日、もう一度佐伯さんの家を訪ねた。

    「昨日のことなんですが」

    「ええ」

    佐伯さんは、まるで私が来るのを待っていたようだった。

    「莉奈が亡くなる前、私たちが喧嘩していたって言いましたよね」

    「言ったわね」

    「何で喧嘩していたか、知っていますか?」

    佐伯さんはしばらく黙った。

    「……あなた、本当に何も覚えていないの?」

    その言葉に、背中が冷たくなった。

    「はい」

    佐伯さんは私から目を逸らした。

    「莉奈ちゃんはね、最後の頃、ずっと同じことを言ってたの」

    「何を?」

    「『もうすぐ、全部終わる』って」

    私は息を止めた。

    「何が終わるんですか?」

    「それは……」

    佐伯さんは言いかけて、口を閉じた。

    そして、

    「あなたに聞けば分かると思ってた」

    そう言った。

    「……私?」

    「ええ」

    私は何も言えなかった。

    「莉奈ちゃんは、あなたに何かを話そうとしてた」

    「何を?」

    「そこまでは知らないわ」

    佐伯さんは首を振った。

    「ただ、あの日――」

    そこで佐伯さんは言葉を止めた。

    「午後三時になる直前、莉奈ちゃんがあなたの家の窓を見ていたのは覚えてる」

    「……私を待っていた?」

    「そうだと思う」

    私は写真を思い出した。

    14時58分。

    莉奈は笑っていた。

    まるで、私が来ることを疑っていない顔。

    でも私は――

    来なかった。

    本当に?


    帰宅すると、私は自分の部屋に入った。

    机の上に、青いキーホルダーを置く。

    その横に、昔の写真を置いた。

    二人で持っていた赤と青。

    そして、写真の中にいない私。

    「……おかしい」

    私は写真の裏側を確認した。

    何も書いていない。

    次の写真。

    その次。

    全部確認する。

    すると、一枚だけ。

    写真の端に、鉛筆で小さな数字が書かれていた。

    15:00

    私は息を止めた。

    午後3時。

    約束の時間。

    写真は、14時58分。

    その次に残っている記録は、15時。

    その間の二分間だけが、

    きれいに抜け落ちている。

    まるで誰かが、

    そこだけ切り取ったみたいに。

    私は写真を机に置いた。

    その瞬間。

    窓の外で、

    カツン。

    小さな音がした。

    私は振り返った。

    誰もいない。

    ただ、窓ガラスに――

    赤いものが引っかかっていた。

    私はゆっくり近づいた。

    それは、

    赤い髪留めだった。

    私は手を伸ばした。

    触れた瞬間、

    頭の中に、あの日の声が響いた。

    『これを持ってて』

    莉奈の声。

    そして、私の声。

    『……でも、これを持ってたら、莉奈は……』

    そこで記憶が途切れた。

    私は髪留めを握ったまま、

    動けなくなった。

    なぜなら――

    その赤い髪留めには、

    私の青いキーホルダーと同じ傷がついていた。

    二つは、昔から一緒だった。

  • あの家には、誰も住んでいない|第4話 2分間

    私は、写真を何度も見返した。

    14時58分。

    写真の中の莉奈は、笑っている。

    その二分後、午後3時。

    私たちは会う約束をしていた。

    そして、その直後に火事が起きた。

    なのに私は、その二分間のことを何も覚えていない。

    「……おかしい」

    私はスマホを置いた。

    母は、私が約束の場所へ行かなかったと言った。

    でも、本当にそうだろうか。

    私は写真を撮った。

    少なくとも、14時58分にはあの家の近くにいた。

    だったら――

    私は3時までの二分間、どこにいた?

    それだけじゃない。

    写真を撮ったのが私なら、

    なぜ私は、莉奈を撮ったのだろう。

    約束の時間まで、あと二分。

    普通なら、写真なんて撮っている場合じゃない。

    なのに私は、わざわざカメラを向けている。

    まるで――

    何かを確かめるために。


    私は昔のことを知っていそうな人を探すことにした。

    最初に思いついたのは、当時近所に住んでいた佐伯さんだった。

    今も同じ町に住んでいるらしい。

    住所を母に聞いて、午後から訪ねてみた。

    インターホンを押す。

    しばらくして、年配の女性が出てきた。

    「……あなた」

    私の顔を見るなり、佐伯さんは目を見開いた。

    「久しぶりです。私のこと、覚えてますか?」

    「もちろん覚えてるわよ」

    そう言って、佐伯さんは少しだけ笑った。

    でも、その笑顔はすぐに消えた。

    「大きくなったわね」

    「莉奈のことを聞きたくて」

    その名前を出した瞬間。

    佐伯さんの表情が変わった。

    「……まだ覚えてるの?」

    「忘れるわけないですよ」

    私は答えた。

    「莉奈は私の親友だったから」

    佐伯さんは何も言わなかった。

    ただ、私の顔をじっと見ていた。

    「何か、知ってますか?」

    しばらくして、佐伯さんは小さく息を吐いた。

    「あなたたち、本当に仲が良かったものね」

    「はい」

    「いつも二人一緒だった」

    「そうです」

    「でもね……」

    佐伯さんは言葉を止めた。

    「莉奈ちゃんが亡くなる少し前から、二人はよく喧嘩してたでしょう?」

    私は固まった。

    「……喧嘩?」

    「覚えてない?」

    首を横に振る。

    佐伯さんは驚いたような顔をした。

    「そう……」

    そして、少し考えてから言った。

    「最後の一週間くらい、莉奈ちゃんが毎日のようにあなたの家に来てたのよ」

    「私の家に?」

    「ええ。でも、あなたとは会わせてもらえなかったみたい」

    「……誰に?」

    佐伯さんは答えなかった。

    代わりに、別のことを聞いた。

    「あなた、あの日のこと覚えてる?」

    「14時58分の写真までは……」

    「写真?」

    私はスマホを見せた。

    佐伯さんは写真を見るなり、息を呑んだ。

    「これ……」

    「何か分かりますか?」

    佐伯さんは写真の奥を指差した。

    家の二階。

    小さな窓。

    「ここから、莉奈ちゃんがいつも手を振ってたの」

    「私に?」

    「そう」

    佐伯さんは静かに答えた。

    「あなたが帰るとき、いつもね」

    私は写真を見つめた。

    「……でも、この写真では莉奈が窓の前にいるんですよね」

    「違うわ」

    佐伯さんが言った。

    「莉奈ちゃんは、その窓から外を見てたんじゃない」

    「え?」

    「いつも、あなたの部屋を見てたの」

    私は言葉を失った。

    私の家と莉奈の家は、向かい合っていた。

    二階の窓同士が、ちょうど向き合う位置にあった。

    「二人で窓を開けて、よく話してたわ」

    そんな記憶はない。

    でも――

    突然、頭の奥が痛くなった。

    開いた窓。

    夕方の風。

    莉奈の笑った顔。

    そして、

    『約束だからね』

    という声。

    私は額を押さえた。

    「……何の約束?」

    佐伯さんは答えなかった。

    しばらく黙ったあと、ぽつりと言った。

    「そういえば、あの日も……」

    「何ですか?」

    「莉奈ちゃん、あなたの家の窓をずっと見てたわ」

    「……私の?」

    「ええ」

    佐伯さんは私の目を見る。

    「三時になったら、あなたが来るって言ってたから」

    心臓が跳ねた。

    「莉奈が……そう言ったんですか?」

    「ええ」

    「どこへ行くって?」

    佐伯さんは眉を寄せた。

    「そこまでは聞いてないわ」

    そこで一度、言葉を切る。

    「ただね――」

    佐伯さんの声が少し低くなった。

    「三時になる少し前、莉奈ちゃんが何度もあなたの家の窓を見ていたのは覚えてる」

    「……何度も?」

    「まるで、誰かが来るのを待ってるみたいに」

    私は黙り込んだ。

    14時58分。

    あと二分。

    莉奈は、私が来るのを待っていた。

    だったら、私はその二分間に何をしていた?


    家に戻ってから、私は自分の部屋の窓を開けた。

    向かい側を見る。

    昔はそこに莉奈の家があった。

    今は何もないはずなのに。

    私は無意識に、窓の右側へ手を伸ばした。

    そこに、小さな傷がある。

    爪で引っ掻いたような跡。

    私は眉をひそめた。

    こんな傷、いつからあった?

    指で触れる。

    すると、また記憶が蘇った。

    子どもの私。

    窓に貼りつけた小さな紙。

    赤い髪留めをつけた莉奈。

    そして――

    私が泣いている。

    『お願いだから、言わないで』

    莉奈がそう言っている。

    私は息を止めた。

    「……何を?」

    その瞬間だった。

    頭の中に、ほんの一瞬だけ別の光景が浮かんだ。

    午後2時58分。

    私は、この窓の前に立っている。

    莉奈も向こうの窓にいる。

    そして私は――

    何かを握っている。

    青いもの。

    けれど、それが何なのか確認する前に、記憶は途切れた。


    その夜。

    私は母に電話をかけなかった。

    代わりに、昔のアルバムをもう一度開いた。

    そして気づいた。

    中学に入ってから莉奈の写真が一枚もない理由。

    写真がないんじゃない。

    私と莉奈が一緒に写っている写真だけが、ない。

    他の写真には、莉奈がいる。

    クラス写真にも。

    行事の写真にも。

    なのに――

    私と一緒に写った写真だけが、一枚も残っていない。

    私はページをめくった。

    小学校の頃には、何枚もある。

    笑っている私。

    隣にいる莉奈。

    二人で持っている色違いのキーホルダー。

    青と赤。

    でも、中学に入った途端。

    二人で写った写真だけが消えている。

    まるで、

    誰かが意図的に避けていたみたいに。

    私はアルバムを閉じた。

    その瞬間、スマホが震えた。

    知らない番号からだった。

    恐る恐る出る。

    『……もしもし』

    返事はない。

    ただ、かすかな呼吸音だけが聞こえた。

    「誰ですか?」

    しばらくして、電話の向こうから女の声がした。

    『あなた……まだ、莉奈を探してるの?』

    私は息を呑んだ。

    「あなたは誰?」

    電話は切れた。

    画面を見る。

    着信履歴には、番号が表示されていない。

    そして、その直後。

    私は気づいた。

    机の上に置いていたアルバムが、

    開いたままになっている。

    さっき私が閉じたはずのページ。

    そこには、私と莉奈が一緒に写った写真が一枚だけあった。

    でも、その写真には――

    私が写っていなかった。

  • あの家には、誰も住んでいない|第3話 約束

    「どうして、迎えに来なかったの?」

    二階の窓に立つ女の子がそう言ったように見えた。

    私はその場から動けなかった。

    「……何?」

    もう一度、女の子を見る。

    けれど、窓には誰もいなかった。

    カーテンだけが、風に揺れている。

    私は自分に言い聞かせるように笑った。

    「……見間違いだよ」

    そう呟いて、家を離れた。

    でも、歩き出してからも、あの言葉が頭から離れなかった。

    ――どうして、迎えに来なかったの?

    その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。

    まるで、ずっと前から知っている言葉みたいだった。


    家に戻ると、私は昔のアルバムをもう一度開いた。

    莉奈。

    写真の中の莉奈は、いつも私の隣にいる。

    二人で笑っている。

    ふざけている。

    変な顔をしている。

    今まで私は、それを当たり前だと思っていた。

    私たちは小さい頃からずっと一緒だった。

    家が近くて、同じ幼稚園に通い、小学校も中学校も同じ。

    親同士も仲が良かった。

    だから、私にとって莉奈は「友達」という言葉だけでは少し足りなかった。

    姉妹みたいな存在。

    ……そう思っていた。

    けれど、写真を見ているうちに、ひとつ気になることがあった。

    莉奈の写真はたくさんある。

    なのに、

    中学に入ってからの写真が一枚もない。

    私はアルバムをめくる。

    小学校六年生までは、何枚もある。

    卒業式。

    最後の給食。

    桜の木の下。

    でも、中学生になってからは――

    一枚もない。

    「なんで……?」

    私は記憶を探った。

    中学に入ってからも、莉奈とは会っていたはずだ。

    なのに、写真がない。

    その理由が思い出せない。


    その夜。

    私は眠れずに、スマホの古い写真を探していた。

    すると、削除した写真を保存しているフォルダに、見覚えのない画像があった。

    撮影日は、

    15年前の7月24日。

    私は指を止めた。

    開く。

    そこには、子どもの私と莉奈が写っていた。

    二人とも笑っている。

    撮影場所は――

    あの家の前。

    私は写真を拡大した。

    莉奈は、赤い髪留めをつけている。

    そして私の手には、小さな青いキーホルダーが握られていた。

    「これ……」

    私は自分の記憶を探った。

    このキーホルダーには見覚えがある。

    小学校の頃、莉奈とお揃いで買ったものだ。

    莉奈は赤。

    私は青。

    二人で、

    「大人になっても持ってようね」

    そう言っていた。

    そこまでは覚えている。

    でも、その次に莉奈が言った言葉が思い出せない。

    私は写真を眺めながら呟いた。

    「何を約束したんだっけ……」

    その瞬間。

    頭の奥で、誰かの声がした。

    ――三時。

    私は目を閉じた。

    すると、もう一つの言葉が浮かんだ。

    ――絶対に来てね。

    私は目を開けた。

    心臓が大きく鳴っている。

    「……三時?」

    7月24日。

    3時。

    あのメモに書かれていた時間。

    そして、

    「まってる」

    という言葉。

    私は急いで写真の撮影日時を確認した。

    14時58分。

    約束の時間まで、あと二分。

    私は立ち上がった。

    「じゃあ……私は、このあと何をしたの?」

    その答えだけが、どうしても思い出せなかった。


    翌朝。

    私は母に電話した。

    「お母さん」

    『なに?』

    「莉奈のこと、聞きたい」

    母は黙った。

    「私と莉奈って……最後の日、何か約束してた?」

    『……どうして?』

    「昨日、昔の写真を見つけたの」

    しばらく沈黙。

    そして母が言った。

    『莉奈ちゃんは、あなたを待ってた』

    「……え?」

    『あの日、午後3時に会う約束をしてたでしょう』

    私は息を止めた。

    「私……行った?」

    母は答えなかった。

    「ねえ、お母さん。私、行ったの?」

    長い沈黙のあと、

    母は小さな声で言った。

    『……あなたは、行かなかった』

    胸が締め付けられた。

    「なんで?」

    『それは……』

    母が言葉を濁す。

    「私、何かあったの?」

    『もう忘れなさい』

    「無理だよ」

    『忘れたほうがいいの』

    母はそれだけ言って電話を切った。

    私はスマホを見つめた。

    そして、ふと気づいた。

    昨日見つけた写真。

    14時58分。

    写真の中で、莉奈は笑っている。

    約束の時間まで、あと二分。

    私は写真をもう一度見た。

    すると、今まで気づかなかったものが目に入った。

    写真の奥。

    玄関の脇にある小さな時計。

    針は、

    2時58分を指していた。

    写真が撮られた時間と、時計の時間は一致している。

    つまり、この写真が撮られた直後――

    私は莉奈との約束のために、あの家を出たはずだった。

    なのに、母は言った。

    「あなたは、行かなかった」

    では、私は14時58分から15時までの間に、

    どこへ行ったのだろう。

  • あの家には、誰も住んでいない|第2話 写真の中の少女

    母との電話を切ったあとも、私はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。

    画面には、昨日撮った写真が表示されている。

    白い家。

    濃い茶色の屋根。

    庭の金木犀。

    そして、二階の窓に立つ女の子。

    私は写真をもう一度拡大した。

    「……誰?」

    もちろん、答えはない。

    写真の中の女の子は、こちらを見ている。

    顔ははっきり写っていない。

    逆光のせいで、目元が暗く潰れている。

    それでも、服装だけは分かった。

    白いTシャツ。

    紺色のスカート。

    そして、右手に何かを持っている。

    私は写真を保存して、母に送った。

    『これ、昨日撮った写真』

    既読がつく。

    けれど、返信は来ない。

    五分。

    十分。

    十五分。

    痺れを切らして電話をかけると、母は一度目の呼び出しで出た。

    「これ、見て」

    『……見たくない』

    「え?」

    『その写真、消して』

    母の声は、明らかに怯えていた。

    「なんで?」

    『いいから。今すぐ』

    「お母さん、何か知ってるの?」

    しばらく沈黙が続いた。

    やがて母が言った。

    『その服……』

    「うん?」

    『莉奈が、火事の日に着てた服と同じ』

    背中に冷たいものが走った。

    「……どういうこと?」

    『知らない。私は知らない』

    「でも、お母さんが――」

    『もう、この話はやめよう』

    それだけ言って、母は電話を切った。


    私はもう一度、写真を見た。

    白いTシャツ。

    紺色のスカート。

    確かに、どこか懐かしい。

    でも、それだけじゃない。

    私は写真の女の子が右手に持っているものを拡大した。

    小さな赤いもの。

    何なのか分からない。

    そこでふと、昨日見たアルバムを思い出した。

    私は実家に戻り、古いアルバムを探した。

    昨日の写真。

    「7月24日」

    そして、

    「りなちゃんのいえ」

    と書かれていた写真。

    ページをめくる。

    莉奈が写っている写真を一枚ずつ確認していく。

    運動会。

    遠足。

    夏祭り。

    誕生日。

    どの写真でも、莉奈は笑っている。

    でも――

    服装が違う。

    白いTシャツと紺色のスカートを着た写真だけが、なぜか見つからない。

    私はアルバムを閉じた。

    そのとき、床に何かが落ちた。

    小さな紙切れだった。

    拾い上げる。

    古いレシートの裏に、子どもの字で何かが書いてある。

    「7月24日 3時」

    その下には、

    「まってる」

    と書いてあった。

    私は息を止めた。

    誰を?

    何を?

    私は、その字を知っている気がした。

    でも思い出せない。


    その日の午後。

    私はもう一度、莉奈の家があった場所へ向かった。

    母には止められた。

    でも、自分の目で確かめたかった。

    昨日と同じ道を歩く。

    角を曲がる。

    そして――

    私は立ち止まった。

    そこには確かに、家があった。

    昨日と同じ白い壁。

    同じ茶色の屋根。

    同じ金木犀。

    「……あるじゃん」

    思わず呟いた。

    私は家に近づいた。

    表札を見る。

    そこには、

    「高橋」

    と書かれていた。

    莉奈の名字と同じだった。

    私はインターホンに手を伸ばしかけて、やめた。

    その瞬間。

    二階の窓が開いた。

    昨日の女の子だった。

    私は思わず後ずさった。

    女の子は、何も言わない。

    ただ私を見ている。

    そして――

    右手をゆっくり上げた。

    そこには、赤いものが握られていた。

    昨日、写真に写っていたもの。

    小さな赤い髪留め。

    私は息を呑んだ。

    その髪留めには見覚えがあった。

    子どもの頃、莉奈がいつも大切にしていたものだ。

    私は震える声で言った。

    「……それ、どこで拾ったの?」

    女の子は答えない。

    ただ、じっと私を見ている。

    そして、唇だけを動かした。

    声は聞こえなかった。

    でも、私は読めた。

    女の子は、

    こう言った。

    「どうして、迎えに来なかったの?」

  • あの家には、誰も住んでいない|第1話 知らない家

    実家に帰るのは、七年ぶりだった。

    別に、帰りたくなかったわけじゃない。

    ただ、帰る理由がなかった。

    両親は数年前に引っ越していて、今では誰も住んでいない。

    それでも、母から「荷物を整理してきて」と頼まれて、私は久しぶりに昔住んでいた町へ向かった。

    駅を降りると、記憶の中より道が狭く感じた。

    コンビニがなくなっている。

    昔あった文房具屋もない。

    代わりに、見覚えのない新しい家がいくつも建っていた。

    「そりゃ、七年も経てば変わるか」

    独り言を呟きながら、私は昔の通学路を歩いた。

    角を曲がったところで、足が止まった。

    見覚えのある家があった。

    白い外壁。

    濃い茶色の屋根。

    玄関脇に植えられた、大きな金木犀。

    ――莉奈の家だ。

    そう思った。

    小学生の頃、毎日のように遊びに行った家。

    学校が終わると、私はランドセルを玄関に放り投げて、莉奈の家へ走った。

    二人でゲームをしたり、漫画を読んだり。

    夏休みには庭で水風船を投げ合って、二人とも母親に怒られた。

    そんなことを、急に思い出した。

    懐かしくなって、私は家を眺めた。

    すると、玄関から女の子が出てきた。

    私と同じくらいの年齢に見える。

    髪を後ろで一つにまとめて、自転車にまたがった。

    「……あれ?」

    なぜか、胸の奥がざわついた。

    その子が振り返った。

    一瞬だけ、目が合う。

    そして、そのまま走り去っていった。

    私はしばらく動けなかった。

    どうしてだろう。

    初めて見たはずなのに。

    どこかで会ったことがあるような気がした。


    実家に着いて、荷物を整理していると、古いアルバムが出てきた。

    懐かしくなってページをめくる。

    小学校の卒業式。

    運動会。

    夏祭り。

    そして――

    莉奈。

    写真の中の私は笑っていた。

    隣には莉奈がいる。

    二人ともまだ子どもで、歯の抜けた笑顔が妙におかしい。

    私は写真を指でなぞった。

    「……莉奈」

    口に出した瞬間、胸が少し苦しくなった。

    莉奈は、もういない。

    十五年前。

    あの家で火事があった。

    莉奈は、その火事で亡くなった。

    私はそのことを、ずっと覚えている。

    ……覚えているはずだった。

    アルバムを閉じようとしたとき、一枚の写真が床に落ちた。

    拾い上げる。

    写真の裏には、子どもの字で日付が書かれていた。

    7月24日。

    そして、その下に小さく、

    「りなちゃんのいえ」

    と書いてある。

    私は写真を裏返した。

    そこに写っているのは、莉奈の家だった。

    でも、何かがおかしい。

    私は写真をじっと見つめた。

    玄関。

    窓。

    庭。

    何度見ても、どこがおかしいのか分からない。

    ただ――

    写真の中の家には、

    金木犀がなかった。


    その夜。

    私は布団に入ってからも、昼間見た家のことを考えていた。

    あの家には、今も誰かが住んでいる。

    それは別に不思議じゃない。

    莉奈が亡くなったあと、家を売ったのかもしれない。

    別の人が住んでいてもおかしくない。

    そう思いながら目を閉じた。

    すると、昼間見た女の子の顔が浮かんだ。

    ――どこかで見た。

    でも、どこで?

    私は眠る直前、ふと思った。

    あの家の玄関。

    昔と同じだった。

    茶色のドア。

    右側の小さな窓。

    その横に、金木犀。

    なのに、写真には金木犀がない。

    「……いつ植えたんだろう」

    そう呟いてから、私は眠った。

    翌朝。

    母から電話がかかってきた。

    『昨日、実家どうだった?』

    「うん。だいぶ片付いたよ」

    『そう。じゃあ、あとは好きなときに処分していいから』

    「ねえ、お母さん」

    『なに?』

    私は少し迷ってから聞いた。

    「莉奈の家って……まだあるんだね」

    電話の向こうが、急に静かになった。

    「お母さん?」

    『……莉奈の家?』

    「うん。昔の家。昨日、前を通ったら――」

    母は、しばらく何も言わなかった。

    そして、低い声で言った。

    『……あの家、もうないよ』

    私は笑った。

    「いや、あるよ。昨日見たもん」

    『違う』

    母の声が震えていた。

    『莉奈ちゃんの家は――十五年前の火事で、全部なくなったでしょう?』

    私は何も言えなかった。

    昨日、確かに見た。

    白い外壁。

    濃い茶色の屋根。

    玄関脇の金木犀。

    そして――

    その家から出てきた、あの女の子。

    私はスマホを握ったまま、もう一度だけ聞いた。

    「……じゃあ、昨日私が見た家は何?」

    母は答えなかった。

    ただ、しばらくして小さく言った。

    『そこには、家なんて建ってないよ』

    その言葉を聞いた瞬間。

    私は昨日撮った写真を思い出した。

    帰り道、なんとなく撮った一枚。

    私は急いでスマホの写真フォルダを開いた。

    昨日の町並み。

    駅。

    昔の通学路。

    そして――

    あの家。

    私は写真を拡大した。

    白い外壁。

    濃い茶色の屋根。

    玄関脇の金木犀。

    その二階の窓に、

    女の子が立っていた。

  • 【あなたを好きになるまで、あと3回】を読んでくださったあなたへ

    ここまで『あなたを好きになるまで、あと3回。』を読んでくださって、ありがとうございました。

    小春と湊の距離が少しずつ近づいていく一方で、二人の間にはいくつもの秘密がありました。

    「どうして湊は小春を遠ざけようとするのか」

    「小春の父親に何があったのか」

    「二人が昔出会っていたことには、どんな意味があるのか」

    そんなことを考えながら読んでいただけていたら嬉しいです。

    そして何より、

    「この二人、どうなるの?」

    と思いながら、次の話を開いてもらえていたら――

    書き手として、それ以上に嬉しいことはありません。

    恋って、不思議ですよね。

    好きになってはいけないと思うほど、気になってしまう。

    忘れようとするほど、忘れられなくなる。

    そして気づいたときには、

    もう「好きになる前」には戻れなくなっている。

    小春と湊の物語が、読んでくださった方の中に少しでも残ってくれたら嬉しいです。

    最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

    そして――

    ここで一つ、物語は終わります。

    でも、このブログではまた別の物語が始まります。

    次はどんな二人に出会えるのか。

    どんな恋が始まるのか。

    また、最後の一行まで読んでいただけたら嬉しいです。

    次の物語で、またお会いしましょう。

  • 第15話 最後の一行

    倉庫の扉が、ゆっくりと開いた。

    そこに立っていたのは――

    神谷だった。

    小春は息をのんだ。

    写真の中にいた男。

    父親と話していた男。

    そして、あの事故の夜にいた男。

    「……神谷さん」

    小春が名前を呼ぶと、神谷は少しだけ笑った。

    「覚えていたか」

    「どうして……ここに?」

    神谷は小春ではなく、湊を見た。

    「それは、こっちが聞きたい」

    湊が一歩前に出る。

    「小春には関係ない」

    「まだそんなことを言うのか」

    神谷の声が低くなる。

    「お前は昔から何も変わらないな」

    「……何?」

    「守るふりをして、全部一人で抱え込む」

    小春は二人を見つめた。

    「教えてください」

    二人が小春を見る。

    「お父さんが亡くなった夜、何があったんですか?」

    長い沈黙。

    やがて、神谷が口を開いた。

    「事故だった」

    小春は目を見開いた。

    「……事故?」

    「そうだ」

    神谷は続けた。

    「お前の父親を殺したのは、俺じゃない」

    「じゃあ……」

    「俺は、あの夜、お前の父親を助けようとしていた」

    小春は言葉を失った。

    神谷は静かに話し始めた。

    あの日。

    小春の父親は、ある秘密を守るために神谷と会っていた。

    その秘密とは――

    小春の母親が残したものだった。

    それを巡って、複数の人間が動いていた。

    父親は小春を巻き込まないため、すべてを隠そうとしていた。

    そして事故の直前。

    父親は神谷に、こう言った。

    『小春を頼む』

    神谷が首を横に振る。

    「俺は、お前の父親との約束を守ろうとした」

    「じゃあ、どうして湊さんが……」

    「湊の父親から、別の命令が出たんだ」

    小春は湊を見る。

    湊は黙っていた。

    「小春を遠ざけろ」

    神谷が言った。

    「それが、湊に与えられた約束だった」

    「……だから、湊さんは私を避けてた?」

    「そうだ」

    小春は湊を見る。

    「じゃあ……全部、私を守るためだったの?」

    湊はゆっくりとうなずいた。

    「でも、一つだけ嘘をついた」

    「……何?」

    「俺が君を好きになったのは、約束を破ったからじゃない」

    小春が息を止める。

    湊は小春を見つめた。

    「約束を守ろうとしても、好きになってしまった」

    その言葉に、小春の目から涙がこぼれた。

    「……ずるい」

    「うん」

    「そんなこと言われたら……」

    小春は涙を拭った。

    「もっと好きになる」

    湊が小さく笑う。

    「俺も」

    神谷は二人を見て、静かに背を向けた。

    「もう俺の役目は終わった」

    「神谷さん」

    小春が呼び止める。

    神谷は振り返らずに言った。

    「お前の父親は、最後までお前のことを心配していた」

    そして、ポケットから一枚の紙を取り出した。

    「これを渡しておく」

    小春が受け取る。

    そこには、父親の字で短い文章が書かれていた。

    ――小春へ。

    ――もし、この手紙を読む日が来たら、もう誰にも遠慮しなくていい。

    ――自分の好きな人を、自分で選びなさい。

    小春の涙が止まらなくなった。

    「……お父さん」

    湊が小春の隣に立つ。

    「小春」

    「はい」

    「もう、俺から離れなくていい」

    小春は湊を見る。

    「……約束ですか?」

    湊は少し笑った。

    「約束」

    「今度は、破らない?」

    「絶対に」

    小春は笑った。

    そして、自分から湊の手を握った。

    「じゃあ……私も約束します」

    「何を?」

    小春は少し照れながら言った。

    「もう、湊さんのことを好きなのを隠しません」

    湊は小春の手を握り返した。

    二人の間に、もう秘密はなかった。

    あの日から長い時間をかけて、ようやく二人は同じ場所に立った。

    そして――

    小春は、父親からの手紙をもう一度開いた。

    最後に書かれていた一行。

    そこには、こう記されていた。

    『大切な人を守ることと、大切な人のそばにいることは、きっと同じなんだ。』

    小春は、その一行を指でなぞった。

    そして、湊の手をもう一度強く握った。

    ――もう、離さない。

    「最後の一行」

    それは、物語を終わらせるための言葉じゃない。

    これから始まる二人の物語の、最初の一行だった。