「お前が忘れたことにしていた人だ」
夫の言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
私は写真を握ったまま、夫を見つめた。
「……知ってるの?」
夫は答えなかった。
「この人、誰?」
「知らないほうがいい」
「何それ」
私は思わず声を荒げた。
「毎週、花を置いていったのもこの人なの?」
夫は黙ったままだった。
その沈黙が、何より怖かった。
私はもう一度、写真を見る。
15年前。
若い頃の私が笑っている。
そして隣にいる男。
どこか懐かしい。
でも、名前が出てこない。
「私、この人と何をしたの?」
夫がゆっくり口を開いた。
「お前は、何もしてない」
「じゃあ、どうして私はこの人を知らないの?」
「……知らないんじゃない」
夫は写真を取り上げた。
「忘れたんだ」
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
雨。
濡れた道路。
赤い傘。
そして、誰かの声。
――「約束しただろ」
私は反射的に頭を押さえた。
「……痛い」
「思い出さなくていい」
夫が私の肩をつかんだ。
その手が、いつもより強かった。
「あなた、何か知ってるでしょ」
「知らない」
「嘘」
私は夫の手を振り払った。
すると、床に落ちた花束の中から、何かが転がった。
小さな鍵だった。
銀色の古い鍵。
私は拾い上げた。
「これ……何?」
夫の顔から血の気が引いた。
「捨てろ」
「何の鍵?」
「いいから捨てろ!」
夫が初めて怒鳴った。
私は驚いて、鍵を握りしめた。
その瞬間だった。
玄関の外から、コツ、コツ、と音がした。
誰かが歩いている。
私は玄関へ近づいた。
のぞき穴を覗く。
誰もいない。
でも、ドアの下に白い封筒が差し込まれていた。
震える手で拾い上げる。
表には私の名前。
そして裏には、
「次は、あなた一人で来てください。」
と書かれていた。
「どこに?」
私が呟くと、夫が封筒を奪い取った。
中から一枚の紙を出す。
そこには住所が書かれていた。
私はその住所を見た瞬間、息をのんだ。
知らない場所のはずなのに。
なぜか知っている。
夫が小さく呟いた。
「……まだ、あそこにあるのか」
「何が?」
夫は答えなかった。
私は紙を見つめた。
そこには、私が15年前に住んでいたアパートの住所が書かれていた。
そして、その下にもう一行。
「あなたが彼を殺した夜、二人で埋めたものを取りに来てください。」
私は夫の顔を見た。
「……彼を殺した?」
夫は何も言わなかった。
私は、震える声で尋ねた。
「私が……この人を殺したの?」
夫は目を伏せた。
そして、静かに言った。
「違う」
少しだけ安心した。
でも、次の言葉で、私の体から力が抜けた。
「殺したのは――俺だ」
第3話へ続く。
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