『まちがえたままにしておけば、だれもかなしくならない』
私は、その一文を何度も読み返していた。
小学生が書いた自由研究にしては、妙に大人びた言葉だった。
しかも、十五年前の七月二十四日。
火事が起きた日と同じ日付。
『三時になったら、ほんとうのことをいう』
莉奈は、あの日、私に何を話すつもりだったのだろう。
そして私は、何を決めたのだろう。
考えれば考えるほど、頭の中が霧に覆われていく。
私は自由研究を閉じ、もう一度、最初のページを開いた。
二人の女の子が描かれている。
赤い丸と、青い丸。
その下に、小さな字で名前が書かれていた。
莉奈。
そして、私の名前。
私は絵をじっと見つめた。
二人はよく似ている。
けれど、同じではない。
髪の長さも、目の形も、よく見れば違っている。
それなのに、なぜ大人まで間違えるのだろう。
私は、ページの隅に書かれた文字を見つけた。
『ひだりが、わたし』
その下には、もう一行あった。
薄くて、今まで気づかなかった。
『みぎは、莉奈』
私は息を止めた。
左が私。
右が莉奈。
ただ、それだけのことだ。
なのに、胸の奥がひどくざわついた。
私は、母に電話をかけた。
今度こそ、曖昧な返事で終わらせるつもりはなかった。
「もしもし?」
「お母さん。小学校の自由研究が出てきた」
電話の向こうで、母が黙った。
「赤と青のこと、覚えてる?」
「……何の話?」
「私と莉奈が、赤と青を決めていたこと」
「子どもの頃の遊びでしょう」
「そうなのかな」
私は冊子を開いた。
「自由研究に書いてあったよ。私たちはよく間違えられたって」
母は答えなかった。
「誰に間違えられてたの?」
「……いろんな人に、よ」
「お母さんも?」
長い沈黙があった。
「……ええ」
私は思わず立ち上がった。
「お母さんも間違えたの?」
「小さい頃はね」
「どうやって?」
母の声が、少しずつ弱くなった。
「後ろ姿だけだと、分からないことがあったのよ」
「でも、顔を見れば分かるでしょう?」
「……そうね」
その答え方が気になった。
まるで、顔を見ても分からなかったことがあるみたいだった。
「お母さん」
私はゆっくり聞いた。
「私と莉奈って、本当にそんなに似てたの?」
「似ていたわ」
「どこが?」
「顔も、背格好も。小さい頃は特にね」
「じゃあ、どうして赤と青を決めたの?」
母は答えなかった。
私は自由研究のページをめくった。
「おそろいのものを持つためじゃないよね」
「……どうしてそう思うの?」
「両方に、二人の名前が刻まれてたから」
電話の向こうで、母が息を呑んだ。
「赤い髪留めにも、青いキーホルダーにも、RとMがある」
私は続けた。
「自分のものだって分かるようにするなら、自分の名前だけでいいはずだよね?」
母は何も言わなかった。
「どうして、二人の名前が必要だったの?」
しばらくして、母が小さく言った。
「……忘れないためよ」
「何を?」
「どちらが、どちらなのか」
私は黙った。
母は、さらに続けた。
「昔、あなたたちが自分たちで決めたの。どんなことがあっても、赤と青を取り違えないようにって」
「どんなことって?」
「それは……」
母の声が途切れた。
「ごめんなさい。もう話せない」
「どうして?」
「あなたが思い出したら、きっと……」
母は最後まで言わなかった。
けれど、その先の言葉を、私は勝手に想像してしまった。
思い出したら、きっと私は、何かを失う。
あるいは、すでに失ったものの正体を知る。
「お母さん」
私は言った。
「私、もう忘れたままではいられない」
返事はなかった。
電話が切れたあとも、私はしばらくスマホを握っていた。
その日の午後、私は昔通っていた小学校へ向かった。
自由研究を作った頃のことを知る先生が、まだ勤務しているかもしれないと思ったからだ。
受付で事情を説明すると、当時の担任だった先生が、少しだけ時間を取ってくれた。
先生は私の顔を見ると、懐かしそうに笑った。
「久しぶりね。ずいぶん大きくなったわね」
「先生、ひとつ聞きたいことがあるんです」
私は自由研究を見せた。
先生は表紙を見て、すぐに表情を変えた。
「あら……これ、まだ持っていたの?」
「覚えてますか?」
「もちろん。あなたたちが一生懸命作ったものだから」
「あなたたち?」
先生は、はっとしたように口を閉じた。
「……あなたと莉奈ちゃんよ」
「でも、これを書いたのは私の名前になっています」
先生は冊子を見つめた。
「そうね。提出したのは、あなたの名前だったわ」
「莉奈も一緒に作ったんですか?」
先生は、すぐには答えなかった。
「二人で相談しているところは見たことがあるわ。でも、どこまで一緒に作ったのかは、覚えていないの」
私はページを開いた。
「先生。私たちって、そんなに似ていましたか?」
先生は少し困ったように笑った。
「よく間違えられていたわね」
「先生も?」
「ええ。特に、二人が同じ服を着ているときはね」
「同じ服……」
「髪型も似ていたし、背も同じくらいだったから」
私は、あることを思い出した。
小学校の頃の写真。
白いシャツ。
紺色のスカート。
莉奈が火事の日に着ていたとされる服。
「先生」
私は写真を見せた。
「この服、覚えていますか?」
先生は写真を見つめた。
そして、静かに言った。
「……あの日も、二人とも同じような格好をしていたわ」
心臓が跳ねた。
「二人とも?」
「ええ」
私は写真を握りしめた。
「でも、母は莉奈がその服を着ていたって……」
「莉奈ちゃんも着ていたし、あなたもよく似た服を持っていたでしょう?」
私は何も言えなかった。
先生は私の顔を見た。
「どうしたの?」
「……いえ」
私は写真をしまった。
聞きたいことは、まだあった。
でも、これ以上聞いたら、何かが決定的に変わってしまう気がした。
帰ろうとしたとき、先生が私を呼び止めた。
「そういえば」
振り返る。
「火事の少し前、あなたたちが二人で言い争っているのを見たことがあるわ」
「何を言い争っていたんですか?」
先生は首を横に振った。
「そこまでは聞こえなかった。ただ……」
「ただ?」
「莉奈ちゃんが、あなたに向かってこう言っていたの」
先生は、少し考えてから口にした。
「『今日は、絶対に間違えないでね』って」
私は、息をするのを忘れた。
帰宅してすぐ、私は昔の写真を広げた。
白いシャツ。
紺色のスカート。
赤い髪留め。
青いキーホルダー。
一枚ずつ確認する。
すると、小学校最後の夏に撮られた写真の中に、気になるものがあった。
校庭の隅。
二人の女の子が並んでいる。
左側の子は、青いキーホルダーを持っている。
右側の子は、赤い髪留めをつけている。
その写真の裏には、母の字でこう書かれていた。
『左が私、右が莉奈』
私は写真を裏返した。
そして、もう一度表を見た。
左側の女の子。
顔は、私によく似ている。
右側の女の子も、私によく似ている。
私は写真を机に置き、自由研究を開いた。
『ひだりが、わたし』
『みぎは、莉奈』
先生の言葉が頭の中で繰り返された。
『今日は、絶対に間違えないでね』
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
午後二時五十八分。
向かい合う二つの窓。
私は、窓の前に立っている。
向こう側にいる莉奈が、赤い髪留めを外す。
そして、私に向かって差し出す。
『これ、持ってて』
私は首を横に振る。
『嫌だ』
『お願い』
莉奈の目には、涙が浮かんでいた。
『今日だけでいいから』
私は、何かを言おうとした。
けれど、その言葉は思い出せない。
代わりに、莉奈の声だけが、はっきりと耳に残った。
『三時になったら、みんなに本当のことを話すから』
私は目を開けた。
手のひらには、爪が食い込んでいた。
みんなに、本当のことを話す。
何を?
誰に?
そして、私は何を恐れていたのだろう。
机の上の写真を、もう一度見た。
母が書いた文字。
『左が私、右が莉奈』
私は写真を裏返した。
その裏側に、鉛筆で書かれた小さな文字があることに気づいた。
母の字ではない。
子どもの字だった。
『もし、みんながまちがえたら』
その下に、震えるような線で、もう一文。
『わたしは、莉奈になる』