あの家には、誰も住んでいない|第8話 赤と青

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『まちがえたままにしておけば、だれもかなしくならない』

私は、その一文を何度も読み返していた。

小学生が書いた自由研究にしては、妙に大人びた言葉だった。

しかも、十五年前の七月二十四日。

火事が起きた日と同じ日付。

『三時になったら、ほんとうのことをいう』

莉奈は、あの日、私に何を話すつもりだったのだろう。

そして私は、何を決めたのだろう。

考えれば考えるほど、頭の中が霧に覆われていく。

私は自由研究を閉じ、もう一度、最初のページを開いた。

二人の女の子が描かれている。

赤い丸と、青い丸。

その下に、小さな字で名前が書かれていた。

莉奈。

そして、私の名前。

私は絵をじっと見つめた。

二人はよく似ている。

けれど、同じではない。

髪の長さも、目の形も、よく見れば違っている。

それなのに、なぜ大人まで間違えるのだろう。

私は、ページの隅に書かれた文字を見つけた。

『ひだりが、わたし』

その下には、もう一行あった。

薄くて、今まで気づかなかった。

『みぎは、莉奈』

私は息を止めた。

左が私。

右が莉奈。

ただ、それだけのことだ。

なのに、胸の奥がひどくざわついた。


私は、母に電話をかけた。

今度こそ、曖昧な返事で終わらせるつもりはなかった。

「もしもし?」

「お母さん。小学校の自由研究が出てきた」

電話の向こうで、母が黙った。

「赤と青のこと、覚えてる?」

「……何の話?」

「私と莉奈が、赤と青を決めていたこと」

「子どもの頃の遊びでしょう」

「そうなのかな」

私は冊子を開いた。

「自由研究に書いてあったよ。私たちはよく間違えられたって」

母は答えなかった。

「誰に間違えられてたの?」

「……いろんな人に、よ」

「お母さんも?」

長い沈黙があった。

「……ええ」

私は思わず立ち上がった。

「お母さんも間違えたの?」

「小さい頃はね」

「どうやって?」

母の声が、少しずつ弱くなった。

「後ろ姿だけだと、分からないことがあったのよ」

「でも、顔を見れば分かるでしょう?」

「……そうね」

その答え方が気になった。

まるで、顔を見ても分からなかったことがあるみたいだった。

「お母さん」

私はゆっくり聞いた。

「私と莉奈って、本当にそんなに似てたの?」

「似ていたわ」

「どこが?」

「顔も、背格好も。小さい頃は特にね」

「じゃあ、どうして赤と青を決めたの?」

母は答えなかった。

私は自由研究のページをめくった。

「おそろいのものを持つためじゃないよね」

「……どうしてそう思うの?」

「両方に、二人の名前が刻まれてたから」

電話の向こうで、母が息を呑んだ。

「赤い髪留めにも、青いキーホルダーにも、RとMがある」

私は続けた。

「自分のものだって分かるようにするなら、自分の名前だけでいいはずだよね?」

母は何も言わなかった。

「どうして、二人の名前が必要だったの?」

しばらくして、母が小さく言った。

「……忘れないためよ」

「何を?」

「どちらが、どちらなのか」

私は黙った。

母は、さらに続けた。

「昔、あなたたちが自分たちで決めたの。どんなことがあっても、赤と青を取り違えないようにって」

「どんなことって?」

「それは……」

母の声が途切れた。

「ごめんなさい。もう話せない」

「どうして?」

「あなたが思い出したら、きっと……」

母は最後まで言わなかった。

けれど、その先の言葉を、私は勝手に想像してしまった。

思い出したら、きっと私は、何かを失う。

あるいは、すでに失ったものの正体を知る。

「お母さん」

私は言った。

「私、もう忘れたままではいられない」

返事はなかった。

電話が切れたあとも、私はしばらくスマホを握っていた。


その日の午後、私は昔通っていた小学校へ向かった。

自由研究を作った頃のことを知る先生が、まだ勤務しているかもしれないと思ったからだ。

受付で事情を説明すると、当時の担任だった先生が、少しだけ時間を取ってくれた。

先生は私の顔を見ると、懐かしそうに笑った。

「久しぶりね。ずいぶん大きくなったわね」

「先生、ひとつ聞きたいことがあるんです」

私は自由研究を見せた。

先生は表紙を見て、すぐに表情を変えた。

「あら……これ、まだ持っていたの?」

「覚えてますか?」

「もちろん。あなたたちが一生懸命作ったものだから」

「あなたたち?」

先生は、はっとしたように口を閉じた。

「……あなたと莉奈ちゃんよ」

「でも、これを書いたのは私の名前になっています」

先生は冊子を見つめた。

「そうね。提出したのは、あなたの名前だったわ」

「莉奈も一緒に作ったんですか?」

先生は、すぐには答えなかった。

「二人で相談しているところは見たことがあるわ。でも、どこまで一緒に作ったのかは、覚えていないの」

私はページを開いた。

「先生。私たちって、そんなに似ていましたか?」

先生は少し困ったように笑った。

「よく間違えられていたわね」

「先生も?」

「ええ。特に、二人が同じ服を着ているときはね」

「同じ服……」

「髪型も似ていたし、背も同じくらいだったから」

私は、あることを思い出した。

小学校の頃の写真。

白いシャツ。

紺色のスカート。

莉奈が火事の日に着ていたとされる服。

「先生」

私は写真を見せた。

「この服、覚えていますか?」

先生は写真を見つめた。

そして、静かに言った。

「……あの日も、二人とも同じような格好をしていたわ」

心臓が跳ねた。

「二人とも?」

「ええ」

私は写真を握りしめた。

「でも、母は莉奈がその服を着ていたって……」

「莉奈ちゃんも着ていたし、あなたもよく似た服を持っていたでしょう?」

私は何も言えなかった。

先生は私の顔を見た。

「どうしたの?」

「……いえ」

私は写真をしまった。

聞きたいことは、まだあった。

でも、これ以上聞いたら、何かが決定的に変わってしまう気がした。

帰ろうとしたとき、先生が私を呼び止めた。

「そういえば」

振り返る。

「火事の少し前、あなたたちが二人で言い争っているのを見たことがあるわ」

「何を言い争っていたんですか?」

先生は首を横に振った。

「そこまでは聞こえなかった。ただ……」

「ただ?」

「莉奈ちゃんが、あなたに向かってこう言っていたの」

先生は、少し考えてから口にした。

「『今日は、絶対に間違えないでね』って」

私は、息をするのを忘れた。


帰宅してすぐ、私は昔の写真を広げた。

白いシャツ。

紺色のスカート。

赤い髪留め。

青いキーホルダー。

一枚ずつ確認する。

すると、小学校最後の夏に撮られた写真の中に、気になるものがあった。

校庭の隅。

二人の女の子が並んでいる。

左側の子は、青いキーホルダーを持っている。

右側の子は、赤い髪留めをつけている。

その写真の裏には、母の字でこう書かれていた。

『左が私、右が莉奈』

私は写真を裏返した。

そして、もう一度表を見た。

左側の女の子。

顔は、私によく似ている。

右側の女の子も、私によく似ている。

私は写真を机に置き、自由研究を開いた。

『ひだりが、わたし』

『みぎは、莉奈』

先生の言葉が頭の中で繰り返された。

『今日は、絶対に間違えないでね』

その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

午後二時五十八分。

向かい合う二つの窓。

私は、窓の前に立っている。

向こう側にいる莉奈が、赤い髪留めを外す。

そして、私に向かって差し出す。

『これ、持ってて』

私は首を横に振る。

『嫌だ』

『お願い』

莉奈の目には、涙が浮かんでいた。

『今日だけでいいから』

私は、何かを言おうとした。

けれど、その言葉は思い出せない。

代わりに、莉奈の声だけが、はっきりと耳に残った。

『三時になったら、みんなに本当のことを話すから』

私は目を開けた。

手のひらには、爪が食い込んでいた。

みんなに、本当のことを話す。

何を?

誰に?

そして、私は何を恐れていたのだろう。

机の上の写真を、もう一度見た。

母が書いた文字。

『左が私、右が莉奈』

私は写真を裏返した。

その裏側に、鉛筆で書かれた小さな文字があることに気づいた。

母の字ではない。

子どもの字だった。

『もし、みんながまちがえたら』

その下に、震えるような線で、もう一文。

『わたしは、莉奈になる』