転職して一週間。
小春は、まだ新しい職場に慣れずにいた。
コピー機の場所も、給湯室の使い方も、誰に何を聞けばいいのかも分からない。
その日も、資料を抱えたまま廊下で立ち止まっていた。
「……これ、どこに持っていけばいいんだろ」
小さく呟いた、その時。
「それ、会議室B」
後ろから声がした。
振り返ると、一人の男性が立っていた。
黒い髪。
白いシャツ。
無駄なことを話さなそうな、少し冷たい目。
「……ありがとうございます」
「初めてだよね」
「はい」
「じゃあ、ついてきて」
そう言って、彼は歩き出した。
小春も慌てて後を追う。
会議室に資料を置くと、彼は何も言わずに戻っていった。
「あの……!」
小春が呼び止める。
男性が振り返った。
「お名前……」
「ああ」
彼は少しだけ笑った。
「湊」
それだけ言って、また歩いていった。
その日の昼休み。
小春が一人でお弁当を食べていると、同僚の女性が隣に座った。
「小春ちゃん、もう湊さんと話した?」
「湊さん?」
「さっき廊下で一緒にいた人」
「あ、うん」
すると彼女は、少し驚いた顔をした。
「珍しい」
「何が?」
「湊さん、自分から新人に声かけたりしないから」
小春は箸を止めた。
「そうなの?」
「うん。無愛想で有名」
そう言われると、少し気になった。
確かに、優しいというより淡々としていた。
でも――
資料を運ぶ時、重そうなものを小春から自然に取ってくれた。
あれは、優しさじゃないのだろうか。
そんなことを考えていると、午後になった。
突然、外から雨の音が聞こえてきた。
帰る頃には、かなり強い雨になっていた。
小春は会社の入口で立ち尽くす。
傘を持ってきていない。
「最悪……」
その時。
頭上に傘が差し出された。
「使えば?」
振り返る。
湊だった。
「え?」
「俺、車だから」
「でも……」
「風邪ひくよ」
そう言って、湊は傘を小春の手に押しつけた。
「ありがとうございます」
「じゃあ」
「湊さん!」
また呼び止めてしまった。
湊が振り返る。
「明日、返します」
「いつでもいいよ」
そう言って、今度こそ歩いていった。
小春は、その背中を見つめていた。
胸が、少しだけ変な感じがした。
まだ名前を知ったばかりなのに。
なぜか、もう少し彼のことを知りたいと思った。
その夜。
小春は借りた傘を玄関に立てかけた。
そしてスマートフォンを見る。
会社の連絡先を確認していると――
一件のメッセージが届いた。
知らない番号だった。
『その人に近づかないでください』
小春は眉をひそめた。
誰?
もう一通。
『湊さんを好きになってはいけません』
心臓が、ドクンと鳴った。
そして最後に届いたメッセージ。
そこには――
『あなたが彼を好きになるまで、あと3回です。』
小春は、画面を見つめたまま動けなかった。
――第2話「二人目の傘」に続く。