「……私の夫?」
看護師の言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
10年前。
母が亡くなる直前。
病院に来ていた男性。
それが、私の夫。
「本当に……夫だったんですか?」
「はい」
看護師は頷いた。
「お名前も確認しました。間違いありません」
私は何も言えなかった。
夫は、母が亡くなったことを私と一緒に悲しんでいた。
少なくとも、私はそう思っていた。
なのに。
私の知らないところで、母に会っていた。
私は病院を出て、夫に電話をかけた。
今度はすぐに出た。
「美咲?」
「10年前、母が亡くなる前に病院に行った?」
電話の向こうが静かになった。
「……誰に聞いた?」
その一言で分かった。
夫は知っている。
「どうして行ったの?」
「お前の母親に呼ばれた」
「何を話したの?」
「……言えない」
「また?」
私は思わず声を荒らげた。
「また私に隠すの?」
「美咲、聞いてくれ」
「もう聞きたくない!」
電話を切った。
その夜、私は一人で家にいた。
夫は帰ってこなかった。
私は第8話で見たDVDをもう一度再生した。
15年前の映像。
私。
沙織。
あの男。
そして夫。
4人でいる。
私は画面を止めた。
「どうして……」
そのときだった。
頭の奥に、何かが引っかかった。
雨の音。
車のドアが閉まる音。
誰かの叫び声。
私は目を閉じた。
すると――
映像が浮かんだ。
15年前の夜。
私は車の中にいた。
隣には、あの男。
後部座席には沙織。
運転していたのは――
夫。
「どこへ行くの?」
私は聞いていた。
夫は答えなかった。
男が言った。
「美咲、今からでも遅くない」
「何が?」
「全部、お前に話す」
私は首を振った。
「聞きたくない」
「でも、お前のお父さんは――」
「やめて!」
私は叫んだ。
その瞬間。
車が急停車した。
夫が車を降りる。
男も降りる。
二人が激しく言い争っている。
私は車の中で震えていた。
沙織が私の手を握る。
「美咲、大丈夫」
「怖い……」
「大丈夫だから」
突然――
大きな音がした。
私は車から飛び出した。
そして見た。
雨の中に倒れている男。
そのそばに――
夫が立っていた。
私は叫んだ。
「何したの!?」
夫は何も言わなかった。
私は男のところへ駆け寄った。
「ねえ!」
返事がない。
私は泣きながら夫を見た。
「救急車を呼んで!」
夫は動かなかった。
「早く!」
それでも動かない。
そのとき、男がかすかに目を開けた。
そして私に向かって言った。
「……逃げろ」
「え?」
「お前の……父親が……」
そこで男の声が途切れた。
私は震えた。
「お父さんが……何?」
男は答えなかった。
そして、そのとき――
別の車のライトが近づいてきた。
沙織が叫んだ。
「美咲!逃げて!」
私は走った。
何も分からないまま。
ただ、怖かった。
そして――
その後の記憶がない。
私は目を開けた。
現在の自分の部屋だった。
頬が濡れている。
私は泣いていた。
「……思い出した」
全部ではない。
でも、確かに思い出した。
あの男は、あの夜、死んでいなかった。
少なくとも私が見たときは。
そして夫は――
男を殺したわけではない。
何か別のことをしていた。
私は急いで沙織に電話した。
「思い出した」
電話の向こうで、沙織が息を呑んだ。
「どこまで?」
「車の中にいたこと」
「……そう」
「あなたもいた」
「うん」
「夫もいた」
「うん」
私は一つずつ確認した。
「そして、あの男は生きてた」
沙織は答えなかった。
「ねえ、沙織」
「何?」
「あのあと、何があったの?」
長い沈黙。
そして沙織が言った。
「あなたが逃げたあと……」
声が震えていた。
「私は、あの人のところに戻った」
「どうして?」
「まだ生きていたから」
私は息を止めた。
「じゃあ……あの人は?」
「私が病院に連れて行った」
「……え?」
「でも、病院には行けなかった」
「どうして?」
沙織は泣きながら答えた。
「途中で、あの人が消えたの」
「消えた?」
「車を止めたほんの数分の間に」
私は混乱した。
「じゃあ、誰があの人を連れて行ったの?」
沙織は小さな声で言った。
「あなたのお父さん」
私は息を呑んだ。
「父が?」
「そう」
「でも父は……」
その瞬間。
沙織が言った。
「美咲」
「何?」
「あなたのお父さんは、15年前に亡くなってない」
私は凍りついた。
「……どういうこと?」
「あなたのお父さんは――」
沙織の声が震えた。
「今も生きてる」
電話が切れた。
私はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。
すると、玄関のチャイムが鳴った。
一度。
二度。
私は恐る恐る玄関へ向かった。
ドアの前には、誰かが立っていた。
「美咲」
聞き覚えのない、低い男の声。
「長い間、待たせたな」
私は息を止めた。
そして男は、こう言った。
「お前には、まだ何も話していないことがある」
第12話へ続く。