翌朝。
小春が会社に着くと、まだ始業時間には少し早かった。
エントランスを抜けたところで、見覚えのある姿が目に入る。
「……湊さん?」
柱の横に立っていたのは、湊だった。
「おはよう」
「お、おはようございます。どうしたんですか? こんな早く」
「別に。たまたま」
そう言いながら、湊は小春の手元を見た。
「……傘は?」
「あ……」
昨日借りた傘は、家に置いたままだった。
「忘れました」
「やっぱり」
湊が小さく笑った。
その瞬間、窓の外で雨が降り始めた。
「えっ……」
小春が窓に近づくと、湊がため息をつく。
「だから言ったのに」
「天気予報では降らないって……」
そのときだった。
「小春さん」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、同じ部署の男性社員が立っていた。
「これ、よかったら使って」
差し出されたのは、黒い折りたたみ傘。
「昨日も傘なかったよね。たまたま予備があったから」
「あ、ありがとうございます」
小春が受け取ろうとした瞬間――
「……それ、受け取らなくていい」
湊の声がした。
「え?」
湊は小春の手から傘を取り上げると、自分の傘を開いた。
「こっち」
「でも……」
「駅まで送る」
そう言って、湊は小春の手を取った。
ほんの一瞬だった。
けれど、その手の温かさは、離れたあともしばらく残っていた。
*
昼休み。
小春が一人で休憩室にいると、朝の男性社員がやってきた。
「ちょっと、いい?」
「はい?」
彼はポケットから一枚の写真を取り出した。
「これ……小春さんだよね?」
写真には、幼い頃の小春が写っていた。
そして、その隣には――知らない若い男性。
「……誰?」
「それは、俺にも詳しくは分からない」
「じゃあ、なんで私の写真を……」
男性は少し迷ってから言った。
「これ、湊さんには見せないほうがいい」
「どうして?」
答えを聞く前に、休憩室のドアが開いた。
「小春」
湊だった。
視線が、写真に向けられる。
「……何の写真?」
「え?」
湊の表情が、初めて明らかに変わった。
「それ……どこで?」
「この人が……」
小春が振り返ると、男性社員はもういなかった。
「小春」
湊が静かに言う。
「その人には、あまり近づかないほうがいい」
「どうして?」
「……言ったら、君が俺を嫌いになるから」
その言葉が、胸に引っかかった。
「湊さん……何を知ってるんですか?」
「今は、まだ言えない」
「どうして?」
湊は答えなかった。
ただ、小春を見つめていた。
その目が、いつもよりずっと苦しそうに見えた。
*
その夜。
小春のスマートフォンが震えた。
また、あの番号からだった。
『写真の男性を知りたいですか?』
小春は迷いながら画面を開いた。
続いて、もう一通。
『この男は、あなたのお父さんです。』
「……お父さん?」
小春の指が震えた。
父親は、小春が幼い頃に亡くなったと聞かされていた。
それなのに――。
さらにメッセージが届く。
『湊さんが隠していることを、私は全部知っています。』
小春は画面を見つめたまま動けなかった。
そのとき。
窓の外に、人影が見えた。
「……え?」
慌てて窓に近づく。
そこに立っていたのは――湊だった。
手には、朝と同じ黒い傘。
小春は息をのんだ。
その傘を見た瞬間、昼間の写真と、あの男性の言葉が頭をよぎった。
――湊さんには見せないほうがいい。
どうして?
どうして湊は、あの写真を見た瞬間に、あんな顔をしたの?
そして――
どうして私のことを、こんなにも気にかけてくれるの?
小春は窓越しに湊を見つめた。
胸の奥が、また苦しくなる。
いつの間にか―― 湊に嫌われることより、 湊を好きになってしまった自分のほうが、怖かった。
――第4話「隠された秘密」に続く。