写真を握ったまま、私は病院の廊下に立っていた。
1988年10月24日。
私が生まれた日。
そして写真の裏には、
『この子は、私たちの子ではありません。』
母の字で、そう書かれていた。
何度見ても、文字は変わらない。
「……私は、誰なの?」
誰に聞いているのか、自分でも分からなかった。
看護師の女性が、静かに口を開いた。
「美咲さん」
「はい」
「もう一つ、あなたのお母さまから預かっているものがあります」
私は顔を上げた。
「まだあるんですか?」
女性は頷いた。
そして、古い小さな封筒を差し出した。
表には、
『18歳になった美咲へ』
と書かれていた。
「18歳……?」
私は封筒を見つめた。
「でも、私はこれをもらっていません」
「ええ」
「どうして?」
女性は困ったように首を振った。
「お母さまは、あなたに渡そうとしたそうです」
「じゃあ、なぜ……?」
「あなたのお父さまが、取りに来たんです」
胸がざわついた。
「父が?」
「はい」
「何と言っていました?」
女性は少し考えてから答えた。
「『この子には、まだ早い』と」
私は唇を噛んだ。
また父。
15年前の映像にも父がいた。
母のDVDにも、父の秘密が残されていた。
そして今度は、私宛ての手紙まで父が隠していた。
私は封筒を開けた。
中には一枚の紙が入っていた。
そこには、母の字でこう書かれていた。
『美咲、あなたは私が産んだ子ではありません。』
分かっていたはずなのに、胸が痛んだ。
そして、その下には続きがあった。
『でも、あなたを娘だと思わなかった日は一日もありません。』
涙がこぼれた。
母の顔が浮かんだ。
「……お母さん」
私は続きを読んだ。
『あなたを産んだ女性は、私の一番大切な友人でした。』
手が止まった。
母の友人。
誰?
さらに下には、一つの名前が書かれていた。
私はその名前を見た瞬間、息を呑んだ。
『沙織』
「……嘘」
沙織。
私の親友。
15年前の事件を知っている。
私の記憶を消したと言った。
そして、母ともつながっていた。
「どうして……?」
私は急いで沙織に電話をかけた。
何度か呼び出したあと、ようやく繋がった。
「もしもし?」
「沙織」
「……美咲?」
「私のお母さんと、あなたのお母さんって友達だったの?」
電話の向こうが静かになった。
「……誰に聞いたの?」
「母の手紙に書いてあった」
長い沈黙。
やがて沙織が言った。
「そう」
「知ってたの?」
「知ってた」
「じゃあ、私の本当の母親は……」
「まだそこまでは話せない」
「どうして?」
「美咲、お願い」
沙織の声が震えていた。
「これ以上、調べないで」
「嫌」
「あなたのためなの」
「もうその言葉は聞き飽きた!」
私は叫んだ。
「みんな私のためって言う。でも、私には何も教えてくれない!」
電話の向こうで、沙織が泣いている気配がした。
そして、しばらくして言った。
「……じゃあ、一つだけ教える」
「何?」
「あなたを産んだ人は――」
沙織が言葉を止める。
「15年前に死んだ男と、深い関係があった」
私は息を止めた。
「……あの男と?」
「そう」
「じゃあ、私の父親は……」
「分からない」
「沙織!」
「本当に分からないの」
そのとき、電話の向こうで何か音がした。
ガタン。
「沙織?」
「……誰か来た」
「え?」
「美咲、今どこ?」
「病院」
「そこから動かないで」
「どうして?」
沙織は小さな声で言った。
「あなたを探してる人がいる」
「誰?」
「分からない」
「沙織!」
「でも――」
沙織の声が震えた。
「その人は、あなたのお母さんを知ってる」
そこで電話が切れた。
私はスマートフォンを握ったまま、動けなかった。
そのとき。
背後から声がした。
「美咲さん」
振り返る。
先ほどの看護師だった。
「もう一つだけ、お伝えしなければならないことがあります」
「何ですか?」
女性は少し迷ったあと、口を開いた。
「10年前、お母さまが亡くなった日に――」
一度、息を吸う。
「病院に来た男性がいました」
「男性?」
「はい」
「誰ですか?」
女性は私を見つめた。
「その方は、お母さまにこう言っていました」
私は息を止めた。
「『娘には、絶対に会わせない』と」
「誰がそんなことを?」
女性は答えた。
そして、その名前を聞いた瞬間。
私は持っていた写真を落とした。
「……そんな」
その男性の名前は――
私の夫だった。
私はその場から動けなくなった。
なぜ夫が、母の死の直前に病院にいたのか。
そして――
なぜ母は、私を産んだ女性の名前を「沙織」と書き残したのか。
まだ何も分からない。
でも、一つだけ確かなことがあった。
15年前に消された私の記憶の中に、
私自身の出生に関する秘密が隠されている。
そして、その秘密を知っている人たちは、
今も私のすぐ近くにいる。
第11話へ続く。