第9話 母の死

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「次は、あなたのお母さんの番です。」

カードを握ったまま、私は玄関に立ち尽くしていた。

母は10年前に死んだ。

病気だった。

病院で、私が看取った。

だから、この文章の意味が分からない。

誰が、何のためにこんなことを書くのか。

私は花束を玄関に置いた。

そのとき、スマートフォンが鳴った。

知らない番号だった。

嫌な予感がした。

それでも電話に出た。

「もしもし……?」

しばらく無言だった。

そして、女の声がした。

「美咲さん?」

「はい」

「お母さまのことで、話があります」

私は息を呑んだ。

「……母を知っているんですか?」

「10年前、お母さまが入院していた病院で働いていました」

看護師だった。

私は思わず椅子に座った。

「母が……何か言っていましたか?」

「亡くなる少し前に、一度だけ」

女性は声を落とした。

「『娘には、私は死んだことにしておいてください』と」

私は固まった。

「……何?」

「私も意味が分かりませんでした」

「母は……死んだんですよね?」

電話の向こうで、女性が黙った。

そして、

「死亡診断書はあります」

と言った。

「でも――」

嫌な沈黙。

「私は、ご本人の顔を確認していません」

私は立ち上がった。

「どういうことですか?」

「亡くなったとき、病室にはご家族しか入れないことになっていて……」

「家族?」

「はい」

その瞬間、頭の中に一人の人物が浮かんだ。

夫。

私は電話を切った。

すぐに夫へ電話をかける。

出ない。

もう一度。

出ない。

私は急いで家を出た。

向かったのは、母が最後に入院していた病院だった。

受付で事情を話すと、昔の記録を確認してくれた。

しかし、10年前のカルテを私が簡単に見せてもらえるはずもない。

そこで私は、一つの名前を伝えた。

母の担当だった看護師。

すると受付の女性が言った。

「その方なら、まだここにいます」

私は驚いた。

案内された部屋に入ると、そこには電話で話した女性がいた。

「あなたが……」

女性は頷いた。

「美咲さん」

そして、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。

「これをずっと持っていました」

紙には、母の字が書かれていた。

『美咲に渡してください。』

私は震える手で受け取った。

そこには、短い文章があった。

『あなたのお父さんは、本当のお父さんではありません。』

また同じ言葉。

第8話のDVDと同じ。

でも、その下には続きがあった。

『そして、あなたのお母さんは、本当のお母さんでもありません。』

私は紙を落とした。

「……どういうこと?」

看護師は何も言わない。

私は震える声で尋ねた。

「じゃあ、私は誰の子なんですか?」

看護師はゆっくり答えた。

「それは、私には分かりません」

「じゃあ、どうして母はこんなことを?」

「一つだけ、覚えていることがあります」

看護師は言った。

「亡くなる前、お母さまがずっと言っていた言葉です」

「何て?」

看護師は私を見た。

そして、

『あの子を返して』

と言った。

私は息を止めた。

「あの子って……私?」

看護師は首を横に振った。

「分かりません」

そのときだった。

病院の廊下から、足音が聞こえた。

コツ。

コツ。

コツ。

私は振り返った。

廊下の先に、誰かが立っている。

黒い服。

顔は見えない。

私が立ち上がると、その人物はゆっくり歩き出した。

そして、私の前を通り過ぎる瞬間――

小さな声で言った。

「あなたのお母さんは、生きてる」

私は振り返った。

でも、もう誰もいなかった。

「待って!」

廊下を走る。

エレベーターの扉が閉まる。

私は間に合わなかった。

その場に立ち尽くしていると、スマートフォンが鳴った。

夫からだった。

私は電話に出た。

「どこにいるの?」

夫は答えない。

「今、病院にいる」

「……そうか」

「あなた、母のことで何か知ってる?」

長い沈黙。

そして夫が言った。

「美咲」

「何?」

「家に帰れ」

「嫌」

「頼む」

「母は生きてるの?」

夫が息を呑む音がした。

私は確信した。

夫は知っている。

「答えて」

しばらくして、夫が言った。

「……生きてる」

私はスマートフォンを握りしめた。

「どこにいるの?」

夫は答えた。

「お前の母親は――」

そこで電話が切れた。

私は何度もかけ直した。

繋がらない。

そのとき、病院の受付から声をかけられた。

「美咲さん」

先ほどの看護師だった。

「これも、お母さまから預かっていました」

渡されたのは、小さな封筒。

表には、

『母親に会う前に読んでください』

と書かれていた。

私は封筒を開けた。

中には写真が一枚。

そこには――

若い母と、若い父。

そして、その二人に抱かれている赤ん坊。

裏には日付があった。

1988年10月24日。

私の生まれた日。

私は写真を裏返した。

そこには母の字で、一言だけ書かれていた。

『この子は、私たちの子ではありません。』

私は写真を握りしめた。

そして初めて思った。

15年前に消されたのは、私の記憶だけじゃない。

私自身の出生そのものだったのかもしれない。

第10話へ続く。