「次は、あなたのお母さんの番です。」
カードを握ったまま、私は玄関に立ち尽くしていた。
母は10年前に死んだ。
病気だった。
病院で、私が看取った。
だから、この文章の意味が分からない。
誰が、何のためにこんなことを書くのか。
私は花束を玄関に置いた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
嫌な予感がした。
それでも電話に出た。
「もしもし……?」
しばらく無言だった。
そして、女の声がした。
「美咲さん?」
「はい」
「お母さまのことで、話があります」
私は息を呑んだ。
「……母を知っているんですか?」
「10年前、お母さまが入院していた病院で働いていました」
看護師だった。
私は思わず椅子に座った。
「母が……何か言っていましたか?」
「亡くなる少し前に、一度だけ」
女性は声を落とした。
「『娘には、私は死んだことにしておいてください』と」
私は固まった。
「……何?」
「私も意味が分かりませんでした」
「母は……死んだんですよね?」
電話の向こうで、女性が黙った。
そして、
「死亡診断書はあります」
と言った。
「でも――」
嫌な沈黙。
「私は、ご本人の顔を確認していません」
私は立ち上がった。
「どういうことですか?」
「亡くなったとき、病室にはご家族しか入れないことになっていて……」
「家族?」
「はい」
その瞬間、頭の中に一人の人物が浮かんだ。
夫。
私は電話を切った。
すぐに夫へ電話をかける。
出ない。
もう一度。
出ない。
私は急いで家を出た。
向かったのは、母が最後に入院していた病院だった。
受付で事情を話すと、昔の記録を確認してくれた。
しかし、10年前のカルテを私が簡単に見せてもらえるはずもない。
そこで私は、一つの名前を伝えた。
母の担当だった看護師。
すると受付の女性が言った。
「その方なら、まだここにいます」
私は驚いた。
案内された部屋に入ると、そこには電話で話した女性がいた。
「あなたが……」
女性は頷いた。
「美咲さん」
そして、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「これをずっと持っていました」
紙には、母の字が書かれていた。
『美咲に渡してください。』
私は震える手で受け取った。
そこには、短い文章があった。
『あなたのお父さんは、本当のお父さんではありません。』
また同じ言葉。
第8話のDVDと同じ。
でも、その下には続きがあった。
『そして、あなたのお母さんは、本当のお母さんでもありません。』
私は紙を落とした。
「……どういうこと?」
看護師は何も言わない。
私は震える声で尋ねた。
「じゃあ、私は誰の子なんですか?」
看護師はゆっくり答えた。
「それは、私には分かりません」
「じゃあ、どうして母はこんなことを?」
「一つだけ、覚えていることがあります」
看護師は言った。
「亡くなる前、お母さまがずっと言っていた言葉です」
「何て?」
看護師は私を見た。
そして、
『あの子を返して』
と言った。
私は息を止めた。
「あの子って……私?」
看護師は首を横に振った。
「分かりません」
そのときだった。
病院の廊下から、足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
私は振り返った。
廊下の先に、誰かが立っている。
黒い服。
顔は見えない。
私が立ち上がると、その人物はゆっくり歩き出した。
そして、私の前を通り過ぎる瞬間――
小さな声で言った。
「あなたのお母さんは、生きてる」
私は振り返った。
でも、もう誰もいなかった。
「待って!」
廊下を走る。
エレベーターの扉が閉まる。
私は間に合わなかった。
その場に立ち尽くしていると、スマートフォンが鳴った。
夫からだった。
私は電話に出た。
「どこにいるの?」
夫は答えない。
「今、病院にいる」
「……そうか」
「あなた、母のことで何か知ってる?」
長い沈黙。
そして夫が言った。
「美咲」
「何?」
「家に帰れ」
「嫌」
「頼む」
「母は生きてるの?」
夫が息を呑む音がした。
私は確信した。
夫は知っている。
「答えて」
しばらくして、夫が言った。
「……生きてる」
私はスマートフォンを握りしめた。
「どこにいるの?」
夫は答えた。
「お前の母親は――」
そこで電話が切れた。
私は何度もかけ直した。
繋がらない。
そのとき、病院の受付から声をかけられた。
「美咲さん」
先ほどの看護師だった。
「これも、お母さまから預かっていました」
渡されたのは、小さな封筒。
表には、
『母親に会う前に読んでください』
と書かれていた。
私は封筒を開けた。
中には写真が一枚。
そこには――
若い母と、若い父。
そして、その二人に抱かれている赤ん坊。
裏には日付があった。
1988年10月24日。
私の生まれた日。
私は写真を裏返した。
そこには母の字で、一言だけ書かれていた。
『この子は、私たちの子ではありません。』
私は写真を握りしめた。
そして初めて思った。
15年前に消されたのは、私の記憶だけじゃない。
私自身の出生そのものだったのかもしれない。
第10話へ続く。