「私があなたの記憶を消したの」
沙織の言葉が、頭の中で何度も響いた。
「……どうやって?」
私は震える声で聞いた。
沙織は答えなかった。
代わりに、15年前の写真を見つめた。
「あなたは、あの夜のことを全部覚えてた」
「全部?」
「そう。彼が死んだことも、あなたのお父さんのことも……そして、あなたの夫のことも」
私は夫を見る。
夫は何も言わない。
「じゃあ、どうして私は忘れたの?」
沙織は涙を拭った。
「あなたが自分から忘れたいって言ったから」
「私が?」
「何もかも知ったあなたは、壊れそうだった」
沙織の声が震える。
「だから、私たちはあなたを守るために……」
「私たちって誰?」
沙織が黙った。
私はもう一度聞いた。
「私を忘れさせることに賛成したのは誰?」
沙織は夫を見た。
「……彼」
夫だった。
私は夫を見つめた。
「あなたも知ってたの?」
「知ってた」
「私が記憶をなくすことも?」
「そうだ」
「15年間、ずっと?」
夫は頷いた。
私は笑ってしまった。
笑うしかなかった。
「じゃあ、あなたは15年間、私が何も知らないふりをして生きてるのを見てたんだ」
「違う」
「何が違うの?」
「俺は、お前に生きていてほしかった」
「それなら、最初から全部話してよ!」
声を上げた瞬間。
頭の中に、また映像が流れた。
雨。
暗い部屋。
机の上に置かれた写真。
父の声。
そして――
私の声。
『この人を殺して』
私は頭を抱えた。
「嫌……」
男が私の肩を支えた。
「思い出すな」
「でも、思い出さなきゃいけない」
「美咲」
「私は何をしたの?」
男は黙った。
すると夫が言った。
「お前のお父さんは、俺たちが思っていた人間じゃなかった」
私は夫を見る。
「どういう意味?」
「お前の父親は、昔からある人間を探していた」
「誰を?」
夫は答えた。
「この男だ」
私は男を見る。
男は静かに頷いた。
「俺の父親は、君のお父さんに恨まれていた」
「どうして?」
「君のお父さんの秘密を知っていたから」
何が何だか分からない。
15年前。
父。
夫。
沙織。
そして目の前にいる男。
全部が一本の線でつながっている。
私はふと気づいた。
「……花」
3人が私を見る。
「毎週、私に花を送ってきたのは誰?」
男は首を振った。
「俺じゃない」
沙織も、
「私でもない」
夫は黙っている。
私は夫を見た。
「あなた?」
夫は答えなかった。
その沈黙が答えに思えた。
「あなたが送ってたの?」
夫はゆっくり首を横に振った。
「俺じゃない」
「じゃあ誰?」
夫はしばらく考えたあと、低い声で言った。
「一人だけいる」
「誰?」
夫は私を見た。
「お前のお母さんだ」
私は息を呑んだ。
母は――
私が10年前に亡くなった。
「母が花を?」
「そうじゃない」
夫は首を振った。
「母親が生きている頃に、ある人に頼んでいたんだ」
「誰に?」
夫は答えなかった。
その代わり、男がポケットから一枚の紙を出した。
そこには、花屋の名前と電話番号が書かれていた。
そして、その下に母の字で、
『娘がすべてを思い出したら、毎週花を届けてください。』
と書かれていた。
私は紙を握りしめた。
「……お母さんは、私が記憶をなくしたことを知ってたの?」
「知ってた」
沙織が答えた。
「そして、あなたのお母さんだけが、最後まで反対してた」
「何に?」
沙織は私を見つめた。
そして静かに言った。
「あなたの記憶を消すことに」
私は息を止めた。
すると、男が続けた。
「だから、あなたのお母さんは俺に頼んだんだ」
「何を?」
男は私の目を見た。
「15年後、もし君が何も思い出していなかったら――」
一度、言葉を切る。
「花を毎週届けてくれって」
「どうして?」
男は答えた。
「君が自分から真実を探し始めるように」
私は花束を思い出した。
毎週届いた花。
「今週も、お疲れさまでした」
「来週も、あなたが笑っていますように」
そして――
「もうすぐ、あなたにも思い出してもらいます」
あれは全部。
母からのメッセージだったのか。
そう思った瞬間、スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
私は恐る恐る電話に出た。
「もしもし?」
しばらく無言だった。
そして、女性の声がした。
「美咲さん……ですよね?」
「はい」
「突然すみません」
女性は少し震えた声で言った。
「あなたのお母さまから、15年前に預かっていたものがあります」
「……何を?」
女性は答えた。
「ビデオテープです」
私は息を呑んだ。
「そこには、15年前のあなたが映っています」
そして女性は、最後にこう言った。
「あなたのお母さまは、亡くなる前にこう言っていました」
『この映像を見れば、娘は全部思い出す』
第8話へ続く。