投稿者: ku3c

  • 第10話 知らない家族

    写真を握ったまま、私は病院の廊下に立っていた。

    1988年10月24日。

    私が生まれた日。

    そして写真の裏には、

    『この子は、私たちの子ではありません。』

    母の字で、そう書かれていた。

    何度見ても、文字は変わらない。

    「……私は、誰なの?」

    誰に聞いているのか、自分でも分からなかった。

    看護師の女性が、静かに口を開いた。

    「美咲さん」

    「はい」

    「もう一つ、あなたのお母さまから預かっているものがあります」

    私は顔を上げた。

    「まだあるんですか?」

    女性は頷いた。

    そして、古い小さな封筒を差し出した。

    表には、

    『18歳になった美咲へ』

    と書かれていた。

    「18歳……?」

    私は封筒を見つめた。

    「でも、私はこれをもらっていません」

    「ええ」

    「どうして?」

    女性は困ったように首を振った。

    「お母さまは、あなたに渡そうとしたそうです」

    「じゃあ、なぜ……?」

    「あなたのお父さまが、取りに来たんです」

    胸がざわついた。

    「父が?」

    「はい」

    「何と言っていました?」

    女性は少し考えてから答えた。

    「『この子には、まだ早い』と」

    私は唇を噛んだ。

    また父。

    15年前の映像にも父がいた。

    母のDVDにも、父の秘密が残されていた。

    そして今度は、私宛ての手紙まで父が隠していた。

    私は封筒を開けた。

    中には一枚の紙が入っていた。

    そこには、母の字でこう書かれていた。

    『美咲、あなたは私が産んだ子ではありません。』

    分かっていたはずなのに、胸が痛んだ。

    そして、その下には続きがあった。

    『でも、あなたを娘だと思わなかった日は一日もありません。』

    涙がこぼれた。

    母の顔が浮かんだ。

    「……お母さん」

    私は続きを読んだ。

    『あなたを産んだ女性は、私の一番大切な友人でした。』

    手が止まった。

    母の友人。

    誰?

    さらに下には、一つの名前が書かれていた。

    私はその名前を見た瞬間、息を呑んだ。

    『沙織』

    「……嘘」

    沙織。

    私の親友。

    15年前の事件を知っている。

    私の記憶を消したと言った。

    そして、母ともつながっていた。

    「どうして……?」

    私は急いで沙織に電話をかけた。

    何度か呼び出したあと、ようやく繋がった。

    「もしもし?」

    「沙織」

    「……美咲?」

    「私のお母さんと、あなたのお母さんって友達だったの?」

    電話の向こうが静かになった。

    「……誰に聞いたの?」

    「母の手紙に書いてあった」

    長い沈黙。

    やがて沙織が言った。

    「そう」

    「知ってたの?」

    「知ってた」

    「じゃあ、私の本当の母親は……」

    「まだそこまでは話せない」

    「どうして?」

    「美咲、お願い」

    沙織の声が震えていた。

    「これ以上、調べないで」

    「嫌」

    「あなたのためなの」

    「もうその言葉は聞き飽きた!」

    私は叫んだ。

    「みんな私のためって言う。でも、私には何も教えてくれない!」

    電話の向こうで、沙織が泣いている気配がした。

    そして、しばらくして言った。

    「……じゃあ、一つだけ教える」

    「何?」

    「あなたを産んだ人は――」

    沙織が言葉を止める。

    「15年前に死んだ男と、深い関係があった」

    私は息を止めた。

    「……あの男と?」

    「そう」

    「じゃあ、私の父親は……」

    「分からない」

    「沙織!」

    「本当に分からないの」

    そのとき、電話の向こうで何か音がした。

    ガタン。

    「沙織?」

    「……誰か来た」

    「え?」

    「美咲、今どこ?」

    「病院」

    「そこから動かないで」

    「どうして?」

    沙織は小さな声で言った。

    「あなたを探してる人がいる」

    「誰?」

    「分からない」

    「沙織!」

    「でも――」

    沙織の声が震えた。

    「その人は、あなたのお母さんを知ってる」

    そこで電話が切れた。

    私はスマートフォンを握ったまま、動けなかった。

    そのとき。

    背後から声がした。

    「美咲さん」

    振り返る。

    先ほどの看護師だった。

    「もう一つだけ、お伝えしなければならないことがあります」

    「何ですか?」

    女性は少し迷ったあと、口を開いた。

    「10年前、お母さまが亡くなった日に――」

    一度、息を吸う。

    「病院に来た男性がいました」

    「男性?」

    「はい」

    「誰ですか?」

    女性は私を見つめた。

    「その方は、お母さまにこう言っていました」

    私は息を止めた。

    「『娘には、絶対に会わせない』と」

    「誰がそんなことを?」

    女性は答えた。

    そして、その名前を聞いた瞬間。

    私は持っていた写真を落とした。

    「……そんな」

    その男性の名前は――

    私の夫だった。

    私はその場から動けなくなった。

    なぜ夫が、母の死の直前に病院にいたのか。

    そして――

    なぜ母は、私を産んだ女性の名前を「沙織」と書き残したのか。

    まだ何も分からない。

    でも、一つだけ確かなことがあった。

    15年前に消された私の記憶の中に、

    私自身の出生に関する秘密が隠されている。

    そして、その秘密を知っている人たちは、

    今も私のすぐ近くにいる。

    第11話へ続く。

  • 第9話 母の死

    「次は、あなたのお母さんの番です。」

    カードを握ったまま、私は玄関に立ち尽くしていた。

    母は10年前に死んだ。

    病気だった。

    病院で、私が看取った。

    だから、この文章の意味が分からない。

    誰が、何のためにこんなことを書くのか。

    私は花束を玄関に置いた。

    そのとき、スマートフォンが鳴った。

    知らない番号だった。

    嫌な予感がした。

    それでも電話に出た。

    「もしもし……?」

    しばらく無言だった。

    そして、女の声がした。

    「美咲さん?」

    「はい」

    「お母さまのことで、話があります」

    私は息を呑んだ。

    「……母を知っているんですか?」

    「10年前、お母さまが入院していた病院で働いていました」

    看護師だった。

    私は思わず椅子に座った。

    「母が……何か言っていましたか?」

    「亡くなる少し前に、一度だけ」

    女性は声を落とした。

    「『娘には、私は死んだことにしておいてください』と」

    私は固まった。

    「……何?」

    「私も意味が分かりませんでした」

    「母は……死んだんですよね?」

    電話の向こうで、女性が黙った。

    そして、

    「死亡診断書はあります」

    と言った。

    「でも――」

    嫌な沈黙。

    「私は、ご本人の顔を確認していません」

    私は立ち上がった。

    「どういうことですか?」

    「亡くなったとき、病室にはご家族しか入れないことになっていて……」

    「家族?」

    「はい」

    その瞬間、頭の中に一人の人物が浮かんだ。

    夫。

    私は電話を切った。

    すぐに夫へ電話をかける。

    出ない。

    もう一度。

    出ない。

    私は急いで家を出た。

    向かったのは、母が最後に入院していた病院だった。

    受付で事情を話すと、昔の記録を確認してくれた。

    しかし、10年前のカルテを私が簡単に見せてもらえるはずもない。

    そこで私は、一つの名前を伝えた。

    母の担当だった看護師。

    すると受付の女性が言った。

    「その方なら、まだここにいます」

    私は驚いた。

    案内された部屋に入ると、そこには電話で話した女性がいた。

    「あなたが……」

    女性は頷いた。

    「美咲さん」

    そして、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。

    「これをずっと持っていました」

    紙には、母の字が書かれていた。

    『美咲に渡してください。』

    私は震える手で受け取った。

    そこには、短い文章があった。

    『あなたのお父さんは、本当のお父さんではありません。』

    また同じ言葉。

    第8話のDVDと同じ。

    でも、その下には続きがあった。

    『そして、あなたのお母さんは、本当のお母さんでもありません。』

    私は紙を落とした。

    「……どういうこと?」

    看護師は何も言わない。

    私は震える声で尋ねた。

    「じゃあ、私は誰の子なんですか?」

    看護師はゆっくり答えた。

    「それは、私には分かりません」

    「じゃあ、どうして母はこんなことを?」

    「一つだけ、覚えていることがあります」

    看護師は言った。

    「亡くなる前、お母さまがずっと言っていた言葉です」

    「何て?」

    看護師は私を見た。

    そして、

    『あの子を返して』

    と言った。

    私は息を止めた。

    「あの子って……私?」

    看護師は首を横に振った。

    「分かりません」

    そのときだった。

    病院の廊下から、足音が聞こえた。

    コツ。

    コツ。

    コツ。

    私は振り返った。

    廊下の先に、誰かが立っている。

    黒い服。

    顔は見えない。

    私が立ち上がると、その人物はゆっくり歩き出した。

    そして、私の前を通り過ぎる瞬間――

    小さな声で言った。

    「あなたのお母さんは、生きてる」

    私は振り返った。

    でも、もう誰もいなかった。

    「待って!」

    廊下を走る。

    エレベーターの扉が閉まる。

    私は間に合わなかった。

    その場に立ち尽くしていると、スマートフォンが鳴った。

    夫からだった。

    私は電話に出た。

    「どこにいるの?」

    夫は答えない。

    「今、病院にいる」

    「……そうか」

    「あなた、母のことで何か知ってる?」

    長い沈黙。

    そして夫が言った。

    「美咲」

    「何?」

    「家に帰れ」

    「嫌」

    「頼む」

    「母は生きてるの?」

    夫が息を呑む音がした。

    私は確信した。

    夫は知っている。

    「答えて」

    しばらくして、夫が言った。

    「……生きてる」

    私はスマートフォンを握りしめた。

    「どこにいるの?」

    夫は答えた。

    「お前の母親は――」

    そこで電話が切れた。

    私は何度もかけ直した。

    繋がらない。

    そのとき、病院の受付から声をかけられた。

    「美咲さん」

    先ほどの看護師だった。

    「これも、お母さまから預かっていました」

    渡されたのは、小さな封筒。

    表には、

    『母親に会う前に読んでください』

    と書かれていた。

    私は封筒を開けた。

    中には写真が一枚。

    そこには――

    若い母と、若い父。

    そして、その二人に抱かれている赤ん坊。

    裏には日付があった。

    1988年10月24日。

    私の生まれた日。

    私は写真を裏返した。

    そこには母の字で、一言だけ書かれていた。

    『この子は、私たちの子ではありません。』

    私は写真を握りしめた。

    そして初めて思った。

    15年前に消されたのは、私の記憶だけじゃない。

    私自身の出生そのものだったのかもしれない。

    第10話へ続く。

  • 第8話 母が残したDVD

    「DVDです」

    電話の向こうの女性は、そう言った。

    「15年前のホームビデオを、DVDにダビングしたものです」

    私は一瞬、言葉が出なかった。

    「……15年前の?」

    「はい。お母さまから預かっていました」

    その日の午後、私は指定された花屋へ向かった。

    古い小さな店だった。

    店に入ると、年配の女性が私を見るなり、驚いたように目を見開いた。

    「……あなた、美咲さん?」

    「はい」

    女性はしばらく私の顔を見つめていた。

    「お母さまに、本当によく似てる」

    その言葉に胸が詰まった。

    母は10年前に亡くなっている。

    もう、声さえ思い出せなくなりそうなほど時間が経っていた。

    女性は店の奥から、小さなケースを持ってきた。

    中には一枚のDVDが入っていた。

    ラベルには、母の字で、

    『美咲 20歳の頃』

    と書かれていた。

    私はDVDを手に取った。

    「母は、いつこれを?」

    「15年前です」

    「どうして、あなたが?」

    女性は少し困ったように笑った。

    「あなたのお母さまは、時々ここに来ていたの」

    「この花屋に?」

    「ええ」

    女性は一度、言葉を止めた。

    「最後に来たとき、『いつか娘がこれを受け取りに来るから、そのときに渡してほしい』って」

    私はDVDを見つめた。

    「母は……いつか私が来ると思ってたんですか?」

    女性は首を横に振った。

    「来るとは言っていなかったわ」

    「じゃあ……?」

    女性は小さな声で言った。

    「思い出したときに来るって」

    背筋が寒くなった。

    私はDVDを持って帰った。

    その夜。

    夫には何も言わなかった。

    沙織にも連絡しなかった。

    一人で見ることにした。

    テレビにDVDを入れる。

    再生ボタンを押す。

    しばらくして、画面に映像が映った。

    庭。

    まだ若い母。

    そして、20歳くらいの私。

    「美咲、こっち向いて」

    母の声。

    私は画面の中で笑っている。

    「嫌だよ、お母さん」

    「いいから。記念なんだから」

    何気ないホームビデオ。

    昔の家。

    父の声。

    食卓。

    私の誕生日。

    どれも懐かしい。

    私は少しだけ笑った。

    ところが――

    突然、画面が暗くなった。

    映像が切り替わる。

    日付は、

    2011年11月3日。

    私は息を止めた。

    第4話で見た写真と同じ日付だった。

    画面には、見覚えのない部屋が映っている。

    カメラは固定されていた。

    誰かが、わざと撮影している。

    しばらくすると、母が画面の前に座った。

    私は驚いた。

    母はカメラを見つめていた。

    そして、ゆっくり話し始めた。

    「この映像を美咲が見ているなら……」

    母はそこで言葉を止めた。

    「私はもう、美咲のそばにはいないと思います」

    私は息を呑んだ。

    母が亡くなる10年前。

    まだ元気だったはずの母が、なぜこんな映像を?

    「美咲には、絶対に言わないでください」

    母は誰かに向かって話していた。

    「この子は何も知らなくていい」

    しばらく沈黙。

    そして母は言った。

    「でも、もしあの子が自分から真実を探し始めたら……」

    母の目に涙が浮かんだ。

    「そのときは、止めないでください」

    私は画面に近づいた。

    母の声が震える。

    「ただし、一つだけ約束してください」

    母はカメラをまっすぐ見た。

    「夫を信用してはいけない。」

    私は息を止めた。

    夫。

    どうして母が、今の夫のことを知っている?

    映像の中の母は続けた。

    「あなたのお父さんも、彼も、沙織も……」

    そこで母は言葉を止めた。

    「みんな、あなたを守ろうとしている」

    「でも、その方法が間違っている」

    私は画面を見つめた。

    そして母が最後に言った。

    「美咲が一番知りたいのは、きっと――」

    その瞬間。

    映像が乱れた。

    画面が真っ黒になる。

    私はリモコンを操作した。

    でも、再生が進まない。

    「……何で?」

    DVDを確認する。

    傷はない。

    もう一度再生する。

    すると――

    さっきとは違う映像が始まった。

    暗い部屋。

    雨の音。

    そして、若い頃の私が映っていた。

    私は椅子に座っている。

    泣いている。

    目の前には、あの男。

    そして沙織。

    さらに――

    夫。

    私は言葉を失った。

    15年前。

    私たちは4人で一緒にいた。

    そして画面の中の私が叫んだ。

    「もう嫌!」

    男が私の腕をつかむ。

    「美咲、落ち着け!」

    「父に知られたら全部終わる!」

    沙織が泣きながら言う。

    「でも、もう遅いよ……」

    そして夫が言った。

    「俺が何とかする」

    画面の中の私が、夫を見た。

    「あなたなら……私を助けてくれる?」

    夫は頷いた。

    「絶対に」

    そこで映像が止まった。

    私は呆然とした。

    15年前。

    私は夫と知り合っていた。

    しかも――

    今の夫を、私は知っていた。

    「……嘘」

    私は頭を抱えた。

    結婚する前どころか、もっとずっと前から。

    私たちは出会っていた。

    でも、私は覚えていない。

    そのとき。

    テレビ画面が突然、真っ黒になった。

    そして中央に白い文字が浮かび上がった。

    『ここから先は、見ないでください。』

    私はリモコンを握った。

    停止ボタンを押そうとした。

    でも、その前に映像が再生された。

    今度は――

    現在の映像だった。

    私の家。

    今日の夜。

    私が一人でDVDを見ている姿。

    そして、私の後ろに誰かが立っている。

    私はゆっくり振り返った。

    もちろん、誰もいない。

    テレビ画面を見る。

    そこには、もう一人の私が映っていた。

    その後ろに立っている人物。

    私はその顔を見て、息を呑んだ。

    15年前に死んだはずの、あの男。

    彼は画面の中で、私に向かって何かを話している。

    音声はない。

    でも、口の動きだけは分かった。

    彼は、

    「お前の母親は、俺が殺した」

    と言っていた。

    私はテレビの前から動けなくなった。

    その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。

    一度。

    二度。

    三度。

    私は恐る恐る玄関へ向かった。

    のぞき穴を覗く。

    誰もいない。

    でも、ドアの前に白い花束が置かれていた。

    その花束には、いつものカードが一枚。

    私は震える手で開いた。

    そこには――

    「次は、あなたのお母さんの番です。」

    と書かれていた。

    母は10年前に死んでいる。

    なのに、なぜ――

    「次は」と書いたのだろう。

    第9話へ続く。

  • 第7話 消された記憶

    「私があなたの記憶を消したの」

    沙織の言葉が、頭の中で何度も響いた。

    「……どうやって?」

    私は震える声で聞いた。

    沙織は答えなかった。

    代わりに、15年前の写真を見つめた。

    「あなたは、あの夜のことを全部覚えてた」

    「全部?」

    「そう。彼が死んだことも、あなたのお父さんのことも……そして、あなたの夫のことも」

    私は夫を見る。

    夫は何も言わない。

    「じゃあ、どうして私は忘れたの?」

    沙織は涙を拭った。

    「あなたが自分から忘れたいって言ったから」

    「私が?」

    「何もかも知ったあなたは、壊れそうだった」

    沙織の声が震える。

    「だから、私たちはあなたを守るために……」

    「私たちって誰?」

    沙織が黙った。

    私はもう一度聞いた。

    「私を忘れさせることに賛成したのは誰?」

    沙織は夫を見た。

    「……彼」

    夫だった。

    私は夫を見つめた。

    「あなたも知ってたの?」

    「知ってた」

    「私が記憶をなくすことも?」

    「そうだ」

    「15年間、ずっと?」

    夫は頷いた。

    私は笑ってしまった。

    笑うしかなかった。

    「じゃあ、あなたは15年間、私が何も知らないふりをして生きてるのを見てたんだ」

    「違う」

    「何が違うの?」

    「俺は、お前に生きていてほしかった」

    「それなら、最初から全部話してよ!」

    声を上げた瞬間。

    頭の中に、また映像が流れた。

    雨。

    暗い部屋。

    机の上に置かれた写真。

    父の声。

    そして――

    私の声。

    『この人を殺して』

    私は頭を抱えた。

    「嫌……」

    男が私の肩を支えた。

    「思い出すな」

    「でも、思い出さなきゃいけない」

    「美咲」

    「私は何をしたの?」

    男は黙った。

    すると夫が言った。

    「お前のお父さんは、俺たちが思っていた人間じゃなかった」

    私は夫を見る。

    「どういう意味?」

    「お前の父親は、昔からある人間を探していた」

    「誰を?」

    夫は答えた。

    「この男だ」

    私は男を見る。

    男は静かに頷いた。

    「俺の父親は、君のお父さんに恨まれていた」

    「どうして?」

    「君のお父さんの秘密を知っていたから」

    何が何だか分からない。

    15年前。

    父。

    夫。

    沙織。

    そして目の前にいる男。

    全部が一本の線でつながっている。

    私はふと気づいた。

    「……花」

    3人が私を見る。

    「毎週、私に花を送ってきたのは誰?」

    男は首を振った。

    「俺じゃない」

    沙織も、

    「私でもない」

    夫は黙っている。

    私は夫を見た。

    「あなた?」

    夫は答えなかった。

    その沈黙が答えに思えた。

    「あなたが送ってたの?」

    夫はゆっくり首を横に振った。

    「俺じゃない」

    「じゃあ誰?」

    夫はしばらく考えたあと、低い声で言った。

    「一人だけいる」

    「誰?」

    夫は私を見た。

    「お前のお母さんだ」

    私は息を呑んだ。

    母は――

    私が10年前に亡くなった。

    「母が花を?」

    「そうじゃない」

    夫は首を振った。

    「母親が生きている頃に、ある人に頼んでいたんだ」

    「誰に?」

    夫は答えなかった。

    その代わり、男がポケットから一枚の紙を出した。

    そこには、花屋の名前と電話番号が書かれていた。

    そして、その下に母の字で、

    『娘がすべてを思い出したら、毎週花を届けてください。』

    と書かれていた。

    私は紙を握りしめた。

    「……お母さんは、私が記憶をなくしたことを知ってたの?」

    「知ってた」

    沙織が答えた。

    「そして、あなたのお母さんだけが、最後まで反対してた」

    「何に?」

    沙織は私を見つめた。

    そして静かに言った。

    「あなたの記憶を消すことに」

    私は息を止めた。

    すると、男が続けた。

    「だから、あなたのお母さんは俺に頼んだんだ」

    「何を?」

    男は私の目を見た。

    「15年後、もし君が何も思い出していなかったら――」

    一度、言葉を切る。

    「花を毎週届けてくれって」

    「どうして?」

    男は答えた。

    「君が自分から真実を探し始めるように」

    私は花束を思い出した。

    毎週届いた花。

    「今週も、お疲れさまでした」

    「来週も、あなたが笑っていますように」

    そして――

    「もうすぐ、あなたにも思い出してもらいます」

    あれは全部。

    母からのメッセージだったのか。

    そう思った瞬間、スマートフォンが鳴った。

    知らない番号。

    私は恐る恐る電話に出た。

    「もしもし?」

    しばらく無言だった。

    そして、女性の声がした。

    「美咲さん……ですよね?」

    「はい」

    「突然すみません」

    女性は少し震えた声で言った。

    「あなたのお母さまから、15年前に預かっていたものがあります」

    「……何を?」

    女性は答えた。

    「ビデオテープです」

    私は息を呑んだ。

    「そこには、15年前のあなたが映っています」

    そして女性は、最後にこう言った。

    「あなたのお母さまは、亡くなる前にこう言っていました」

    『この映像を見れば、娘は全部思い出す』

    第8話へ続く。

  • 第6話 死んだ男

    「久しぶり、美咲」

    その声を聞いた瞬間、全身が凍った。

    間違えるはずがない。

    写真の中の男。

    15年前に死んだはずの男。

    私の記憶から消えていた男。

    「……あなた、生きてたの?」

    男は何も言わず、私を見つめていた。

    夫が一歩前に出る。

    「近づくな」

    男は夫を見て笑った。

    「相変わらずだな」

    「お前は死んだはずだ」

    「そういうことになってる」

    「どうして……?」

    私は二人を見た。

    二人とも、私が知らない何かを知っている。

    「説明して」

    声が震えた。

    「15年前、何があったの?」

    男はしばらく黙っていた。

    そして、私に近づいた。

    「君は、俺が死んだと思ってた?」

    私は頷いた。

    「みんなそう思ってた」

    「違う」

    男は首を振った。

    「俺は死んでない」

    「じゃあ、どうして……」

    「死んだことにされたんだ」

    夫が口を挟んだ。

    「美咲、お前は帰ろう」

    「嫌」

    私は夫を睨んだ。

    「もう何も信じられない」

    その言葉を聞いて、夫は黙った。

    男が小さく息を吐いた。

    「君に話さなきゃいけない」

    「全部?」

    「全部だ」

    男は私を見た。

    「15年前、俺は君にあるものを渡した」

    「何を?」

    「証拠だ」

    私は首を傾げた。

    「何の?」

    男は夫を見た。

    「君の夫が、君と出会う前からやっていたことの証拠」

    胸がざわついた。

    「私の夫が?」

    「君は知らなかった」

    夫が何か言おうとした。

    でも男が続けた。

    「彼は君を偶然見つけたんじゃない」

    私は夫を見た。

    「……どういうこと?」

    夫は目を伏せた。

    「美咲」

    「答えて」

    「……お前を守りたかった」

    「その答えはもう聞いた」

    私は声を荒げた。

    「私は何から守られてたの?」

    夫は答えない。

    男が言った。

    「君のお父さんだ」

    私は息を呑んだ。

    「……父?」

    父は私が18歳のときに亡くなっている。

    私の中では、優しい父親だった。

    仕事が忙しくても、休日には必ず私をどこかへ連れて行ってくれた。

    「父が何?」

    男はポケットから古い写真を出した。

    そこには父が写っていた。

    その隣に――

    若い頃の夫がいた。

    「……嘘」

    私は写真を奪い取った。

    夫はまだ20代くらい。

    父と何か話している。

    「この写真、いつの?」

    「君が生まれる前」

    男が答えた。

    頭が混乱する。

    「じゃあ、あなたは父と知り合いだったの?」

    「俺だけじゃない」

    男は言った。

    「沙織も知ってる」

    「沙織が?」

    「そして君の夫も」

    私はその場に立ち尽くした。

    15年前の事件だけじゃない。

    もっと前から、すべてがつながっていた。

    私は写真を握りしめた。

    「あなたは、どうして15年間も隠れてたの?」

    男は少しだけ笑った。

    「君を守るためだ」

    「私を?」

    「君は15年前、自分から俺に言ったんだ」

    男の顔から笑みが消える。

    「全部忘れたいって」

    「私が……?」

    「そう」

    「どうして?」

    男は答えなかった。

    代わりに、一枚の小さな紙を差し出した。

    そこには、私の字で書かれていた。

    『もし私が全部忘れたら、絶対に思い出させないで。』

    私は紙を見つめた。

    確かに私の字だった。

    そして、その下にはもう一文。

    『私が忘れたほうが、みんなが生きていられるから。』

    「……みんな?」

    私は顔を上げた。

    「みんなって、誰?」

    男は答えなかった。

    その代わり、廊下の奥を見た。

    「来たみたいだ」

    「誰が?」

    男が小さく呟く。

    「沙織だ」

    私は振り返った。

    そこには、沙織が立っていた。

    でも、いつもの沙織ではなかった。

    泣いている。

    そして私を見るなり、

    「美咲、ごめん」

    と呟いた。

    「私があなたの記憶を消したの」

    私は息を止めた。

    「……何?」

    沙織は涙を流しながら言った。

    「あなたが全部思い出したら、次に死ぬのは――」

    そこで沙織は言葉を止めた。

    私の後ろにいる夫を見た。

    そして震える声で言った。

    「あなたの夫だから」

    第7話へ続く。

  • 第5話 死んだはずの男からの手紙

    震える手で、私は手紙を開いた。

    封筒は古い。

    紙も黄ばんでいる。

    それなのに、文字だけははっきりしていた。

    『あなたがこの手紙を読む頃には、私はもう死んでいるでしょう。』

    私は息を止めた。

    その下には、私の名前が書かれていた。

    ――美咲へ。

    私はその名前を何度も目で追った。

    この男は、私の名前を知っている。

    当たり前のことなのに、なぜか怖かった。

    私は続きを読んだ。

    『まず、謝らなければならない。』

    『君に何も言わず、消えることを許してほしい。』

    消える。

    死ぬ、ではなく。

    消える。

    私はそこに引っかかった。

    そして、次の文章を読んだ。

    『君の夫を信じてはいけない。』

    手から力が抜けた。

    「……夫?」

    私は思わず後ろを振り返った。

    もちろん、誰もいない。

    静まり返った部屋。

    私はもう一度、手紙に目を落とした。

    『彼は君を守っているつもりだ。』

    『でも、君を守るために、君から大切なものを奪った。』

    何のことか分からない。

    私は手紙を握りしめた。

    すると、最後のほうに見覚えのある名前が出てきた。

    ――沙織。

    私は目を疑った。

    『沙織を信じてもいけない。』

    「……どういうこと?」

    親友。

    15年間、私の味方だと思っていた人。

    でも、第4話で彼女は言った。

    「彼が死んだ夜……私はそこにいた」

    そして、

    「最後にいたのは、あなた」

    何が本当なのか分からない。

    私はさらに読み進めた。

    『あの夜、君は彼を殺していない。』

    私は息を吐いた。

    でも、その次の一文で、また胸が苦しくなった。

    『ただし、君は彼が死ぬことを望んだ。』

    「……私が?」

    そんなはずはない。

    私は人を殺したいなんて思ったことはない。

    まして、この男に。

    私は写真を見つめた。

    笑っている私。

    その隣で笑っている男。

    そして、少し離れたところにいる沙織。

    何かがおかしい。

    私は写真を裏返した。

    すると、裏側に小さな文字が書いてあった。

    『3人ではなかった。』

    その下に、

    『4人目がいた。』

    私は固まった。

    4人目?

    写真には、私と男と沙織しか写っていない。

    じゃあ、もう一人は誰?

    その瞬間。

    部屋の外で足音がした。

    一歩。

    また一歩。

    ゆっくり近づいてくる。

    私は慌てて電気を消した。

    ドアの前で足音が止まった。

    カチャ。

    ドアノブが動いた。

    私は息を殺した。

    そして――

    「美咲?」

    聞き覚えのある声。

    夫だった。

    「いるんだろ?」

    私は答えなかった。

    夫はしばらく黙っていた。

    そして、

    「……その手紙を見つけたんだな」

    私は凍りついた。

    どうして知っているの?

    私はドアから離れた。

    「あなた……何を知ってるの?」

    ドアの向こうから、夫の声がした。

    「全部話す」

    「今まで何も話してくれなかったのに?」

    「話せなかったんだ」

    「どうして?」

    長い沈黙。

    そして夫が言った。

    「お前が、思い出すと死ぬからだ」

    私は言葉を失った。

    「……どういう意味?」

    夫は答えなかった。

    代わりに、ポケットから何かを取り出したような音がした。

    カチャッ。

    鍵の音。

    私は手に持っていた鍵を見た。

    同じ音だった。

    「その部屋を出ろ」

    夫が言った。

    「今すぐだ」

    「嫌」

    「美咲!」

    「私は全部知りたい」

    私はドアを開けた。

    そこには夫が立っていた。

    でも――

    夫の手に握られていたのは、ナイフだった。

    私は一歩後ずさった。

    夫は慌ててナイフを隠した。

    「違う。これは……」

    その瞬間。

    背後から、別の声がした。

    「やっぱり来たんだね」

    振り返る。

    誰もいないはずの廊下の奥に、男が立っていた。

    私はその顔を見た。

    写真の男。

    15年前に死んだはずの男。

    私の手から、手紙が落ちた。

    男は私を見て、静かに笑った。

    そして言った。

    「久しぶり、美咲。」

    第6話へ続く。

  • 第4話 親友の告白

    「――久しぶり」

    ドアの向こうに立っていたのは、紛れもなく彼女だった。

    沙織。

    高校時代からの親友。

    最後に会ったのは、いつだっただろう。

    結婚式にも来てくれた。

    その後も何度か連絡を取っていたはずなのに、いつの間にか疎遠になっていた。

    「……どうして、ここに?」

    私が聞くと、沙織は私ではなく夫を見た。

    そして、小さく笑った。

    「やっぱり、まだ話してなかったんだ」

    夫の顔が強張った。

    「帰れ」

    「あなたに言われる筋合いはない」

    沙織は私を見る。

    「全部、思い出した?」

    「何を?」

    「15年前のこと」

    私は答えられなかった。

    沙織は靴を脱ぐと、勝手に家の中へ入ってきた。

    「この人から花が届いてるんでしょ?」

    私は息を呑んだ。

    「知ってるの?」

    「私が頼んだの」

    夫が立ち上がった。

    「沙織!」

    「何?」

    「余計なことをするな」

    「余計なこと?」

    沙織は笑った。

    「15年間、黙ってたことのほうがよっぽど罪深いと思うけど」

    私は二人を交互に見た。

    「……どういうこと?」

    沙織はバッグから一枚の写真を取り出した。

    写真には、私と沙織、そしてあの男が写っていた。

    3人とも笑っている。

    でも、写真の裏には日付が書かれていた。

    15年前の11月3日。

    私はその日付を見つめた。

    胸の奥がざわつく。

    「この日、何があったの?」

    沙織はしばらく黙っていた。

    そして言った。

    「あなたは、彼に会いに行った」

    「どうして?」

    「彼が、あなたに秘密を話したから」

    「秘密?」

    沙織は夫を見た。

    「あなたの夫について」

    空気が凍った。

    「……私の夫?」

    「結婚する前、彼はあなたに言おうとしてた」

    夫が低い声で言った。

    「やめろ」

    沙織は無視した。

    「彼は、あなたの夫がついていた嘘を知ってた」

    私は夫を見る。

    「何の嘘?」

    夫は答えない。

    「あなたは知らなかったのよ」

    沙織が言った。

    「あなたが今の夫と出会ったのは、偶然じゃない」

    私は言葉を失った。

    「……どういうこと?」

    「彼が調べていたの」

    沙織は写真を裏返した。

    そこには、もう一つの住所が書かれていた。

    「この場所に行けば、全部分かる」

    私は住所を見る。

    知らない住所。

    でも、その数字を見た瞬間、なぜか涙が出た。

    「……私、この場所を知ってる」

    夫が立ち上がった。

    「行くな」

    「どうして?」

    「そこに行ったら、お前は全部思い出す」

    「だったら思い出したい」

    夫は何も言えなかった。

    私は沙織に聞いた。

    「あなたは全部知ってるの?」

    沙織は首を横に振った。

    「全部じゃない」

    「じゃあ、何を知ってるの?」

    沙織は俯いた。

    そして、震える声で言った。

    「彼が死んだ夜……私はそこにいた」

    私は息を止めた。

    「あなたが殺したの?」

    「違う」

    沙織は涙を浮かべながら首を振った。

    「私が見たときには、もう死んでた」

    「じゃあ、誰が?」

    沙織は答えなかった。

    代わりに、私の手を握った。

    「あなたよ」

    「……え?」

    「彼が死んでいた場所に、最後にいたのは――」

    沙織の目から涙が落ちた。

    「あなたなの」

    私は後ずさった。

    「そんな……」

    「でもね」

    沙織が続けた。

    「あなたが殺したんじゃない」

    私は混乱した。

    「じゃあ、私は何をしたの?」

    沙織はしばらく黙っていた。

    そして、ポケットから古い鍵を取り出した。

    あの花束に入っていたものと同じ鍵だった。

    「これを開けて」

    「何を?」

    「あなたが15年前に、自分で封印したもの」

    沙織は私の手に鍵を握らせた。

    その瞬間、夫が叫んだ。

    「やめろ!」

    私は夫を見る。

    そして初めて気づいた。

    夫の手が震えている。

    怖がっている。

    私が真実を知ることを。

    私は鍵を握りしめた。

    そして思った。

    ――この人は、私に何を隠している?

    その夜。

    私は夫が眠ったあと、一人で家を出た。

    向かった先は、沙織から渡された住所。

    古びたアパートの一室。

    鍵を差し込む。

    カチッ。

    扉が開いた。

    部屋の中には何もなかった。

    家具もない。

    電気もつかない。

    ただ、部屋の中央に小さな箱が置いてあった。

    私は鍵を使って箱を開けた。

    中に入っていたのは――

    一枚の写真。

    そして、

    「あなたがこの手紙を読む頃には、私はもう死んでいるでしょう」

    から始まる手紙だった。

    差出人の名前を見た瞬間。

    私はその場に座り込んだ。

    そこに書かれていた名前は、

    15年前に死んだはずの、あの男の名前だった。

    第5話へ続く。

  • 第3話 あの夜の記憶

    「殺したのは――俺だ」

    夫の言葉を聞いた瞬間、時間が止まったような気がした。

    「……どういうこと?」

    夫は答えない。

    私はもう一度聞いた。

    「あなたが、この人を殺したの?」

    「そうだ」

    「じゃあ、私は?」

    「お前は何もしてない」

    「でも、手紙には『二人で埋めた』って書いてある」

    夫が黙り込む。

    私はその顔を見て、確信した。

    やっぱり何か隠している。

    「私たちは15年前、この人と何をしたの?」

    「帰ってこなくなったんだ」

    「誰が?」

    「……お前が」

    意味が分からなかった。

    夫は写真をテーブルに置いた。

    「15年前、お前は突然いなくなった」

    「私が?」

    「三日間、連絡がつかなかった」

    そんな記憶はない。

    私が結婚したのは12年前。

    その前のことは、もちろん覚えている。

    大学を卒業して、仕事をして、友達と遊んで――。

    でも。

    よく考えてみると、22歳から24歳までの記憶だけが妙に曖昧だった。

    「……私、本当に三日間いなかったの?」

    夫は頷いた。

    「俺が見つけたとき、お前はあのアパートの前にいた」

    「一人で?」

    「違う」

    夫が写真の男を指差した。

    「こいつと一緒だった」

    私は息を呑んだ。

    「じゃあ、この人は生きてたんじゃない」

    「そのときはな」

    「その後、何があったの?」

    夫は長い間黙っていた。

    そして、

    「お前は、こいつを殺してくれって俺に頼んだ」

    と言った。

    「……私が?」

    「何度も頼んだ」

    「嘘」

    「俺も最初はそう思った」

    夫は苦しそうに目を伏せた。

    「でも、お前が泣きながら言ったんだ」

    『この人を消して』

    『私の人生から、この人を消して』

    私は首を振った。

    「そんなこと言うはずない」

    「その夜、俺はあいつを連れ出した」

    「どこへ?」

    「山の中」

    その言葉を聞いた瞬間。

    また頭の奥で、あの映像が蘇った。

    雨。

    暗い道路。

    車のライト。

    そして――

    土を掘る音。

    私はその場にしゃがみ込んだ。

    「……嫌」

    頭が痛い。

    「思い出したくない」

    「だから言っただろ」

    夫が近づいてくる。

    私はその手を避けた。

    「あなたは……本当に殺したの?」

    「そうだ」

    「じゃあ、どうして捕まってないの?」

    夫は答えなかった。

    私は初めて気づいた。

    15年前の事件なら、当然ニュースになっているはずだ。

    でも、私はそんな事件を知らない。

    「死体は?」

    夫は黙った。

    「どこに埋めたの?」

    「……埋めてない」

    「え?」

    夫が私を見た。

    その目には、今まで見たことのない恐怖が浮かんでいた。

    「俺があの男を殺したと思っていた」

    「……どういう意味?」

    夫は震える手で、花束からもう一枚の紙を取り出した。

    そこには、たった一行だけ書かれていた。

    『あなたの夫は、彼を殺していません。』

    私は夫を見た。

    夫は何も言わない。

    紙の裏には、さらに続きがあった。

    『本当に彼を殺した人を、あなたは今も知っています。』

    その瞬間。

    玄関のチャイムが鳴った。

    夫が凍りつく。

    私が玄関へ向かおうとすると、夫が叫んだ。

    「開けるな!」

    でも、もう遅かった。

    ドアの向こうから、女の声がした。

    「――久しぶり」

    私はその声を聞いた瞬間、思い出した。

    15年前。

    私とあの男と、もう一人。

    三人で写っていた写真。

    その女は――

    私の一番の親友だった。

    第4話へ続く。

  • 第2話 忘れたことにしていたヒト

    「お前が忘れたことにしていた人だ」

    夫の言葉が、頭の中で何度も繰り返された。

    私は写真を握ったまま、夫を見つめた。

    「……知ってるの?」

    夫は答えなかった。

    「この人、誰?」

    「知らないほうがいい」

    「何それ」

    私は思わず声を荒げた。

    「毎週、花を置いていったのもこの人なの?」

    夫は黙ったままだった。

    その沈黙が、何より怖かった。

    私はもう一度、写真を見る。

    15年前。

    若い頃の私が笑っている。

    そして隣にいる男。

    どこか懐かしい。

    でも、名前が出てこない。

    「私、この人と何をしたの?」

    夫がゆっくり口を開いた。

    「お前は、何もしてない」

    「じゃあ、どうして私はこの人を知らないの?」

    「……知らないんじゃない」

    夫は写真を取り上げた。

    「忘れたんだ」

    その瞬間。

    頭の奥で、何かが弾けた。

    雨。

    濡れた道路。

    赤い傘。

    そして、誰かの声。

    ――「約束しただろ」

    私は反射的に頭を押さえた。

    「……痛い」

    「思い出さなくていい」

    夫が私の肩をつかんだ。

    その手が、いつもより強かった。

    「あなた、何か知ってるでしょ」

    「知らない」

    「嘘」

    私は夫の手を振り払った。

    すると、床に落ちた花束の中から、何かが転がった。

    小さな鍵だった。

    銀色の古い鍵。

    私は拾い上げた。

    「これ……何?」

    夫の顔から血の気が引いた。

    「捨てろ」

    「何の鍵?」

    「いいから捨てろ!」

    夫が初めて怒鳴った。

    私は驚いて、鍵を握りしめた。

    その瞬間だった。

    玄関の外から、コツ、コツ、と音がした。

    誰かが歩いている。

    私は玄関へ近づいた。

    のぞき穴を覗く。

    誰もいない。

    でも、ドアの下に白い封筒が差し込まれていた。

    震える手で拾い上げる。

    表には私の名前。

    そして裏には、

    「次は、あなた一人で来てください。」

    と書かれていた。

    「どこに?」

    私が呟くと、夫が封筒を奪い取った。

    中から一枚の紙を出す。

    そこには住所が書かれていた。

    私はその住所を見た瞬間、息をのんだ。

    知らない場所のはずなのに。

    なぜか知っている。

    夫が小さく呟いた。

    「……まだ、あそこにあるのか」

    「何が?」

    夫は答えなかった。

    私は紙を見つめた。

    そこには、私が15年前に住んでいたアパートの住所が書かれていた。

    そして、その下にもう一行。

    「あなたが彼を殺した夜、二人で埋めたものを取りに来てください。」

    私は夫の顔を見た。

    「……彼を殺した?」

    夫は何も言わなかった。

    私は、震える声で尋ねた。

    「私が……この人を殺したの?」

    夫は目を伏せた。

    そして、静かに言った。

    「違う」

    少しだけ安心した。

    でも、次の言葉で、私の体から力が抜けた。

    「殺したのは――俺だ」

    第3話へ続く。

  • 第1話 【毎週とどく花】

    最初にその花を見たとき、私はただの間違いだと思った。

    土曜日の朝、玄関の前に小さな花束が置かれていた。

    白い花を中心にした、シンプルな花束。

    メッセージカードには、たった一言。

    「今週も、お疲れさまでした。」

    名前はなかった。

    宛先もない。

    私は少し気味が悪かったけれど、近所の誰かが間違えて置いたのだろうと思い、そのまま花瓶に飾った。

    それから一週間後。

    また土曜日の朝、同じ場所に花束が置かれていた。

    今度は黄色い花。

    そしてカードには、

    「来週も、あなたが笑っていますように。」

    私は玄関の外を見回した。

    誰もいない。

    向かいの家も、隣の家も静かだった。

    「……誰なんだろう」

    夫に話してみたが、

    「誰かからのプレゼントじゃない?」

    と、たいして気にしていない様子だった。

    私もそれ以上考えないことにした。

    ところが、それは毎週続いた。

    土曜日になると、必ず花が届く。

    赤、黄色、白、紫。

    花の種類も毎回違った。

    カードの文章も、

    「無理しすぎないで」

    「あなたなら大丈夫」

    「ちゃんと見ています」

    と、少しずつ変わっていった。

    最後の一文だけが、どうしても気になった。

    「ちゃんと見ています。」

    私は、その花を受け取るのをやめようと思った。

    でも、花を置いている人を見つけることもできなかった。

    ある土曜日。

    いつもより早く起きて、玄関の近くで待つことにした。

    朝6時。

    7時。

    8時。

    何も起こらない。

    やっぱり今日は来ないのかもしれない。

    そう思った午前9時過ぎ。

    玄関のチャイムが鳴った。

    私は息を殺して、ドアののぞき穴を覗いた。

    そこには誰もいなかった。

    慌ててドアを開ける。

    足元には、いつもの花束。

    でも、今日はカードが違った。

    私はカードを開いた。

    そこには、

    「もうすぐ、あなたにも思い出してもらいます。」

    と書かれていた。

    意味が分からなかった。

    その瞬間、家の中から夫の声がした。

    「どうした?」

    私は振り返った。

    夫は玄関まで来ると、私の手にあるカードを見た。

    そして――

    顔色を変えた。

    「……それ、誰から?」

    「分からない。毎週届いてるの」

    夫は花束を見つめたまま、しばらく黙っていた。

    「これ……」

    「何?」

    夫は答えなかった。

    ただ、震える手で花束の中から一枚の小さな写真を抜き取った。

    私は写真を見た。

    そこには、

    15年前の私が写っていた。

    そして私の隣には、

    今の夫ではない、見知らぬ男性が立っていた。

    私は、その男性を知らない。

    ……はずだった。

    夫が小さな声で言った。

    「こいつが……」

    「誰なの?」

    夫は私を見た。

    そして、

    「お前が忘れたことにしていた男だ」

    と言った。

    その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

    忘れていたはずの記憶が、少しずつ戻り始めた。

    そして私は思い出した。

    15年前。

    私は一度だけ、この男から花をもらったことがある。

    その翌日――

    男は、死んだ。