その夜、小春はなかなか眠れなかった。
何度目か分からないほど、写真を見返している。
幼い自分。
その隣にいる、若い男性。
そして――頭の中に浮かんだ、あの日の記憶。
雨。
一本の傘。
優しい声。
『大丈夫。俺がいるから』
「……誰だったんだろう」
小春は目を閉じた。
けれど、顔だけがどうしても思い出せない。
*
翌朝。
会社へ向かう途中、小春は駅のホームで足を止めた。
雨が降っていた。
昨日と同じような、細かな雨。
その瞬間――
「小春」
聞き覚えのある声がした。
振り返る。
そこに湊がいた。
「……湊さん」
「おはよう」
湊は小春の顔を見ると、少し驚いたように目を細めた。
「寝てない?」
「……少しだけ」
「何かあった?」
小春は答えられなかった。
昨夜届いたメッセージ。
父親の写真。
そして――
自分と湊が、昔会っていたかもしれないこと。
聞きたいことは、たくさんあった。
でも。
「……湊さん」
「ん?」
「私たち、昔会ったことありますか?」
湊の表情が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、小春には分かった。
湊は何かを知っている。
「……どうして、そう思うの?」
「昨日、昔のことを思い出したんです」
湊は黙った。
やがて、雨の向こうを見つめるように言った。
「……会ったことはある」
小春の心臓が跳ねた。
「やっぱり……」
「でも、小春は覚えてない」
「どこで?」
「雨の日だった」
その言葉に、小春は息をのんだ。
「……傘、持ってなかった?」
湊が小さく笑った。
「持ってなかったね」
「……じゃあ」
小春の目が大きくなる。
「私に傘を貸してくれたの……湊さん?」
湊は答えなかった。
ただ、少しだけ困ったように笑った。
「覚えてたんだ」
「……声だけ」
その瞬間。
湊の目が優しく細くなった。
「それだけでも、嬉しい」
胸が、苦しくなる。
どうしてそんな顔で笑うの。
どうしてそんなことを言うの。
小春は目を逸らした。
すると、湊が小さな声で言った。
「……あの日、小春のお父さんに会ったんだ」
「え?」
「君を送ったあと、俺は君のお父さんと話をした」
「何を話したんですか?」
湊はしばらく黙っていた。
そして――
「小春を守ってほしいって、頼まれた」
「……私を?」
「うん」
小春の胸が大きく鳴った。
「どうして……?」
湊は答えなかった。
その代わり、静かに小春を見つめた。
「だから、ずっと約束してた」
「何を?」
「小春が大人になるまで――」
湊の言葉が、そこで止まった。
小春が息をのむ。
「……なるまで、何?」
湊は苦しそうに目を伏せた。
「ごめん。まだ言えない」
まただ。
また何かを隠している。
でも今度は――
小春は少しだけ違う気持ちになっていた。
「……待ちます」
「え?」
「話せるようになるまで、待ちます」
湊が小春を見る。
「どうして?」
小春は自分でも驚くほど素直に答えた。
「……湊さんを、信じたいから」
一瞬、湊の目が揺れた。
そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で――
「それが一番、怖いんだよ」
「……え?」
湊は何も答えなかった。
そのとき、小春のスマートフォンが震えた。
あの番号からだった。
画面には、たった一言。
『2回目。』
小春は息を止めた。
そして、続いて届いたメッセージを見て――
言葉を失った。
『湊さんがあなたを好きになった瞬間、すべてが終わります。』
――第7話「好きになってはいけない理由」に続く。